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沢田研二の幼い日の生い立ち!青春時代は野球選手に憧れたが歌への夢!

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こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は日本の歌手、俳優で

作詞作曲家の沢田研二さんソロ活動から

50年の記念ライブを開催したことを聞き

既に高齢者の仲間入りの幼い頃の少年時代は

思い出場所は京都東側に位置する街が

山々に覆われ京都盆地の裾野にあたります。

生まれ育った出身地が気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

沢田研二の幼い日の生い立ち!

沢田研二の生まれた鳥取県津ノ井村

のどかな田園風景が続いている町です。

国鉄の因美線の駅、津ノ井駅から

列車で鳥取駅までは、5分で到着します。

鳥取といえば、観光地の鳥取砂丘が有名です。


その鳥取砂丘までは、津ノ井村の

実家のご両親は、幼い研二少年を連れて

一時間足らずの鳥取砂丘の砂を見せに

出かけて行っていたと思われます。

津ノ井村から東側15kmで兵庫県で

住んでいた場所は鳥取市の南に位置した場所に

住んでいたと思われます。

何歳まで津ノ井村に居たのか分かりませんが

5歳の頃まで住んでいれば、記憶は

はっきり覚えていると思います。

沢田研二のプロフィール

  • 本名:澤田 研二(さわだ けんじ)
  • 生年月日:1948年6月26日
  • 出身地:京都府京都市(鳥取生まれ)
  • 身長:171cm
  • 体重:推測80~90kgでは予想する人が多い
  • 血液型:A型
  • 星座:蟹座
  • 学歴:京都府立第三錦林小学校卒
       京都府立岡崎中学校卒
       京都府立鴨沂高等学校(中退)
  • 趣味:野球観戦・サッカー観戦・飲み歩き・空手
  • 職業:歌手・俳優・作詞・作曲家作詞作曲家
  • 担当楽器:ボーカル
  • 活動時期:1967年
  • レーベル:ポリドール(1967年-1984年)
         東芝EMI(1985年-2001年)
        JYLIE LABEL(2001年-)
  • 事務所:渡辺プロダクション(1967年-1984年)
        Co-CoLO Corporation(1985年-)
  • 配偶者:最初の妻伊藤エミ(ザ・ピーナツ姉)
  • 子供:伊藤エミの子供長男(一人(かずと)1979年生まれ
  • 現在の妻田中裕子(女優)
       

実家家族

  • 父親:澤田 松雄(京都府舞鶴市内の火薬研究所の取引先で働いていた)
  • 母親:智恵子さん(かなりオシャレな方で服の先端を行くデザインを仕立て研二に着せた)
  • 兄弟:長男一般の方です。
  •    本人
  •    妹(脳性麻痺と情報は伝わっています)

鳥取津ノ井村から父親の勤務先が京都府舞鶴に

その為に京都市左京区浄土寺東田町に移住してきた。

鳥取県津ノ井駅から舞鶴まで今は5時間39分はかかります。

京都市から舞鶴まではそれでも2時間28分は列車、バスを

利用して通勤していたのでしょうか?

 

当時としの時刻表を調べたわけでは有りませんが

蒸気機関車で早朝の列車に乗って

通われていたのでしょうか?


研二少年の住んでいた、東田町から銀閣寺迄

歩いて大人の足で5分程度約600mの所

観光スポットが有って、遊んでいたと思われます。

青春時代は野球選手に憧れた

小学生になって、野球が大好きだった研二少年は

河原で近所の子供達と一緒に過ごしていたのでしょう。

研二少年は運動神経に恵まれいてスポーツばかり

やっていたそうです。

特に草野球から野球に目覚め、友達には

「野球選手になりたい」と希望を話して

いたそうです。

本心は父親が憧れていた俳優、歌手に憧れて

いたそうです。

父親は若い頃、俳優を目指してい、

衣笠貞之助(戦前から戦後の俳優、監督)の

付き人をしていた事もあったそうです。

研二少年に俳優になってもらいたいために

有った事で、京都府へ移り住みます。


研二少年は少林寺拳法を習って事もあって

反射神経も優れていたのでしょう。

小学校の頃の音楽の成績は「3」普通で

その他の教科は「4・5」の優秀な成績だったそうです。

中学生入学と同時に野球部に入部して

1年2年の間にレギュラー選手になるまでは

ポジションをファースト(巨人軍の川上哲治)

研二少年のあこがれだったのです。


当時の野球は、セリーグは巨人、パリーグは西鉄(現・西武)が

せパ両リーグのトップの位置にいたことで、

研二少年は巨人軍の川上哲治さんに憧れていたのでしょう。

ちょっと、横道にそれますが、

川上哲治さんの生まれた出身地は熊本県人吉市です。

京都と同様、盆地で、日本三大急流の球磨川が

不知火海に流れている急流の川です。

夏は暑く、冬は寒い人吉盆地で育った川上さん

弟さんがいました、よく似た感じのお人柄も良く

市民に愛されていました。

そんな、研二少年は野球部のキャプテンになり

京都市大会で好成績を残した。

中学校の女子生徒にモテていたそうです。

校内のファンクラブがあったそうです。

府大会に進出しますが

レベルの高い選手との触れ合い、このままでは

野球を続けるのは今の自分自身に続けることは

無理と感じて断念したそうです。

中学を卒業し高校進学後は野球を取られた

研二少年は、空手部に入部して学園祭で

瓦割を披露した事もあった。

歌への夢

高校帰り道に不良のたまり場といわれた

ダンス喫茶「田園」に出入りするようになっのです

ダンス喫茶でアルバイトをしていると気に

「一曲覚えてきたら歌わせてあげる」と言われて

とにかく一曲覚えて歌った曲の快感が忘れられず

バンドマスターの付き人をやりながら歌っていた。

アルバイトをしながら田園の専属バンドだった

「サンダーズ」のグループに声をかけられて

その理由が、バンドの中でボーカルが居ないなか

探している時に、研二少年に声をかけて

17歳の研二少年は楽器のメンテナンス等の手配から

ボーカルとして18歳になってグループ名「ファニーズ」

正式に加入したのです。

沢田研二の幼い日の生い立ち!青春時代は野球選手に憧れたが歌への夢!のまとめ

鳥取県津ノ井村は母の故郷、母の実家で昭和に生まれて

父親の仕事の都合で、京都市内に住居を移し

幼い頃から京都で野球少年として、将来は野球選手と

一握りの希望をもって、小学校・中学時代に

野球を続け中学3年生の時はキャプテンとして

京都市の大会で4位になったものの

京都府大会では進出したもののレベルの差で

負けてしまったことが悔しくて野球選手の

夢は途絶えて閉まったのです。

高校時代は空手部に属して瓦割を披露した事もあった。

野球をあきらめて、俳優は父の勧めもあったが

断念し、学校帰りにダンス喫茶でアルバイトをして

生演奏で1曲歌ったことがきっかけで

アルバイトと歌うことをバンドマスターに勧められ

17歳の時に学校を中退しました。

一人の少年が、1パーセントの仲間入り

果たすとは、本人も夢にも思っていなかったのでは

ないでしょうか。

既に50周年コンサートも終えて

既に高齢者になった沢田研二

これからは、身体が資本です。

かつて、友人だった志村けん・岸部四郎は

既にこの世に居なくなっています。

幼い頃から目標に向かってある時

目標にしたことが、別の物に変わった

事で1%の可能性を見つけた沢田研二

わたしも見つめてきました。

これからも健康で歌にお芝居で活躍される事を

願っております。

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