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村下孝蔵は加山雄三に憧れものまね?映画エレキの若大将の影響で自作ギター

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こんにちは、自由まなぶです。
「わくわくウキウキのブログ」
にお越しいただき有難うございます。

今回の記事は

村下孝蔵が若大将、加山雄三さんにあこがれて
歌手になったエピソードについて調べてまとめました。

調べてみると
村下さんは、若大将の影響でエレキギターを自作したり
勤めていた会社を突然、辞めてオーディションにエントリーしたり、、、

温厚そうな顔立ちからは想像できないような
天才というか、破天荒な話がたくさん見つかりました。

最後まで見ていただくと
村下さんのたくさんのヒット曲が
また、違った印象で楽しんでいただけるでしょう。

加山雄三のエレキの若大将!

1961年から始まった、日活の若大将シリーズ
映画館の息子孝蔵少年は毎日上映時間には映画鑑賞が
出来る特権をもっていました。

当時8歳小学校2年生の孝蔵少年が
憧れたのが加山雄三の若大将だったのです。

その頃の映画は娯楽の一つで家族で楽しんで
帰り道食事をして帰ったものでした。

まだ、テレビの普及が始まったばかりで
白黒テレビでチャンネルはリモコンではなく
ダイヤル式チャンネルをで回すとチャンネルが
変わる仕組みの物でした。

カラーテレビは高額で一般家庭ではなかなか
購入できませんでした。

1965年12月の若大将シリーズは
エレキギターをテーマにしたエレキの若大将が
上映されたのです。

その孝蔵少年は中学校一年生になっていました。
彼の目に飛び込んできたのが、エレキギターのマシンです。

何とか孝蔵少年はエレキギターに似せた
ギターを見よう見まねで手作りし、試作を重ね
やっと音が出るようになって、父親にエレキギターを
買って欲しい為にエレキの音を出して懸命に
アピールして要求するのでした。

父親からは、当時はギターを弾いている子供は
不良の代名詞でした。

絶対だめだと言われていたようです。

孝蔵少年はエレキギターが欲しくてギターを独学で
改めて自作のラワン材で作ったギターで
加山雄三の曲を弾きました。

当時はアメリカのエレキギターグループのベンチャーズが
弾いた「ダイヤモンドヘッド」を練習して
再び父親にエレキギターを買ってもらうために弾きました。

父親は孝蔵少年のギターに対する好奇心が有り
父親から最初に買ってもらったギターは日本製「グヤトーン」
高校生になってから憧れていた「モズライト・ギター」を
憧れていたギターを父親から買ってもらいました。

中学高校時代にギターの練習は並大抵の
ものではなかった見たいです。

独りギターができるほどの実力を持って
ベンチャーズのダイヤモンドヘッドを独りで
ドラム・ベース・リードギターを1台のギターで
弾いて聞かせたりすると観客を驚かせました。

映画を見て村下孝蔵は!

村下孝蔵の実家は映画館を営んでいた。

当時は、日活映画が主流でした。

渡り鳥シリーズ
小林旭
宍戸錠
赤木圭一郎、

青春若大将シリーズ
加山雄三
田中邦衛
星由里子

などのイケメンスター達が
若者たちの心を元気づけていました。

そんな日活映画の中でも
エレキギターを弾く若大将、加山雄三の姿が
村下さんの目には、輝いて見えた。

若大将がエレキを弾きながら劇中で歌った
「夜空の星」に雷に打たれたような刺激を受けて
歌手になることを決意したのです。

その後は、皆さんご存知のように
村下さんは、夢を実現し、日本を代表するような
歌手であり、ギタリストとして有名になりました。

中学校を卒業し、高校時代は熊本市内の高校に通い
高校時代のクラブ活動は水泳部でした。

かなりの実力を持っていたことで高校を卒業して
水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所に就職しました。
その年の9月に退職し、
音楽の道を選び、広島へ移りました。

1972年の夏頃から自主制作レコードを
シングル「ひとりぼっちの雨の中」を発表しました。
全国オーディション第一回に「それぞれの風」に応募して
グランプリを獲得しました。

これをきっかけに1980年孝蔵さん27歳の時に
シングル「月あかり」でデビューします。
次々に曲を作りました。

  • 1981年発売りの「春雨」
  • 1982年発売の「ゆうこ」
  • 1983年30歳の時「初恋」オリコンチャート最高3位

大ヒットした。
初恋は言うまでも有りませんが、中学時代に
水俣の中学校で作った詩でした。


その後、「踊り子」「少女」とヒット曲を連発しました。

1984年以降は作品の制作にあてて曲ずくりをしながら
1990年後半まで全国でのツアーライブを
中心に積極的に歌い行動していました。

特に1987年に開催した七夕コンサートは
毎年の恒例行事となったのです。

それまでは、コンサートツアーでは特に体調を
崩すことなく、ギターを片手に弾く姿は
中肉中背で健康そのものでした。

1999年6月20日に駒場の音楽スタジオ入りして
コンサートのリハーサル中に突然体調不調を訴え
スタッフ付き添いで自力で病院へ行ったのです。

普通なら救急車を呼んで救急搬送してもらい
緊急処置を施して貰うべきでは無かったのでは
ないでしょうか?

今になって処置の方法が気になります。
と言うのも、私の友人も脳梗塞になって
処置の仕方が良かったので、軽度の脳梗塞で
済みました。

そのときの対処としては、奥さんが自宅に居たから
救急車を呼ぶことが出来たのです。

救急車を呼んだことによって、処置の仕方が良かったと
話してくれました。

村下孝蔵さんは病院へは自分の足で行ったことによって
受付で体調によって、医療の科の初診受診となります。
そんな時間は無かったのではないでしょうかね?
素人の私が思う事でしょうか?

診察の結果、「高血圧性脳内出血」と判明し
昏睡状態に陥り、4日後の6月24日逝去

享年46歳

2021年で没後25年となります。

この話を聞いた時、わたしは当時の事を思い出します。
たしか、夕方のテレビを見ていた時に
テレビの上部にテロップが流れ、「村下孝蔵さん
録音スタジオで倒れて病院へ運ばれた」との
白字で流れたのをおもいだしました。

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