こんにちは、自由まなぶです。
「わくわくウキウキのブログ」
にお越しいただき有難うございます。
先日BSのテレビに時代劇俳優として
舟木一夫さんが刀を抜き戦っている
映像を観ました。
学生服のイメージが強く
頭の中は高校生でした。
その舟木一夫さんの姿を久しぶりに観ました。
舟木さんの歌手時代から最近迄の事を
調べてみようと思いました。
調べているうちに色々な事が
出てきたので記事にまとめてみました。
舟木さん、学生服デビューの印象が強く
55年前の頃にヒットした曲が
高校三年生という純情な曲でした。
まだ、高校生ではなかったわたしは
替え歌で、高校3年生を歌っていました。
舟木さんのプロフィール
舟木さんについて、色々とわかったことが
有ります。
- 生まれ場所:愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)
- 生年月日:1944年12月12日(2021年現在77歳)
- 本名:上田成幸
- 血液型:O型
- 芸名:舟木一夫
- 最初の芸名:舟木和夫
幼い頃の舟木少年の実家は
映画館をお父さんが経営していました。
舟木さんはお父さんが自由奔放な方で
極貧生活を送っていたそうです。
映画館を経営していたお父さんでしたが、
知人の借金の保証人になって
映画館を手放す事に成ったのです。
お父さんは一文無しになって
寝るところを探し長屋住まいになったのです。
舟木さんが1年生の時に両親は離婚して
お父さんに引き取られたのです。
お父さんはとにかく大人の遊びが
大好きで結婚離婚の繰り返しで
9人の女性の人をお父さんが亡くなるまで
「おかあさん」と呼ぶことになってしまった。
そのため、舟木さんは
末弟とは、13歳もの年下でした。
今ならどう対処するでしょうかね?
こんなにも家が貧しかったのは
この家にお金を入れ続けられるのは
舟木さんしかいなかったからです。
まだ、学生だった舟木さんは貧乏な家庭を
弟には見せたくなかったのです。
人並みの生活をさせたい一心でした。
弟を養うために、新聞配達やアルバイトをして
稼いでいました。
しかし、可愛がっていた弟が亡くなってしまい
舟木さんは愕然と肩を落としてしまいました。
高校卒業したら自分の才能で短い間で
儲げる世界に行きたいと思うようになりました。
そんな時、友人の家のテレビで歌手を見て
直感で、これだと思って歌手を目指すようになったのです。
舟木さんは中学2年生の時、お父さんから
学校で音楽指導を教える先生に
指揮者の山田昌弘さんを紹介してもらい
名古屋市内の音楽教室に通ったのです。
1962年2月高校2年生の時にチャンスが訪れました。
民放のCBCテレビ(TBS系列)の番組「歌のチャンピョン」
に出場して当時の歌手松島アキラさんの「湖愁」を歌い
チャンピオンになる。
また、同年3月に名古屋市内のジャズ喫茶で開催された
「松島アキラショー」で、松島アキラさんからわたしと
一緒に歌わないかと呼びかけたのです。
すると、前列にいた高校生が突然手を挙げたのです。
その手は友達が舟木さんの手を持ち上げていたのでした。
そして、松島アキラさんの「湖愁」を見事に歌いきったのです。
この少年こそが後の舟木一夫さんだったのです。
たまたま、松島アキラさんの取材に来ていた「週刊明星」の
記者(恒村嗣郎さん)に目をつけられたのでした。
それからホリプロに入社するまで、愛知の学校から
転校して東京の自由ヶ丘学園高等学校へ
通いながら作曲家の遠藤実さんにレッスンを
受ける事に成ったのです。
そして、高校生だった舟木一夫さんは当時まだ
高校生だったので学生服のままデビューさせたのです。
それからの出来事は皆さんご存じの「高校三年生」が
発売1年で100万枚の大ヒットとなったのです。
舟木さんが活躍していた当時は、
御三家と呼ばれる、アイドル的学生歌手に
橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫の3人でした。
中でも、舟木一夫の歌は学園歌謡と高校生活を
テーマ曲が多かったのです。
当時は多くの青年たちが高校卒業して
大学へは進学せずに、社会に出て行く
時代だったのです。
デビューから2カ月で本人主演の映画も大ヒット
舟木さんは一躍スター歌手となった。
また、青春ソングのほかにも民謡など、歌に特徴のある
声で、時代劇の「銭形平次」のテーマソングも番組の
ロングランでもあった。
今でも、BSチャンネルでは再放送が
放映されています。
しかし、スターも1969年までは、名実ともに
高い人気を保持してたものの1970年代に入り
歌謡映画がすたれ、TVドラマの需要が無くなり
それに追い打ちをかける歌謡界の変化に伴って
表立った仕事は激減し舞台と地方公演が
主な活動の場となってしまったのです。
思いつめた、舟木さんは1970年、1971年
1972年に自殺未遂に終わったものの
1973年には体調を崩し10か月間の静養することにしたのです。
その後十数年にわたり不遇時代が続きました。
歌手として、デビュー30年周年プレ公演会を機に
心の中で同じ青春を過ごした仲間にしか通用しない歌でいい」
と述べています。
2007年には45周年を迎える記念コンサートを行った。
現在も歌手としてテレビやコンサートで精力的に
活躍し舞台俳優として毎年座長公演をこなし
幅広い層から根強いファンを集めている。
涙の敗戦投手 の歌
この曲は甲子園球場での松山商業VS三沢との試合
両校、決着がつかなかった。再試合を再び試合し
結果は松山商業が勝利したのですが、大会開催前から
話題になっていた三沢の敗戦した。
太田幸司の人気が沸騰したと言われています。
再試合はわたしは見ていませんでした。
私、現在は埼玉県民ですが、今でも生まれ育った
熊本の出場校を応援しています。
舟木一夫さんが高校球児の歌を歌って
いたとは知りませんでした。
知っている人は、60歳以上の還暦過ぎた人ですね。
2020年は甲子園での高校野球は中止に成りました。
2021年の夏の大会はコロナで選手たちも
必死になって、甲子園まで来たが、コロナの感染で
戦えず、敗戦して故郷に帰る姿は、
50年前の歌にも
現れているのかと思います。
舟木一夫さんのブログを検索した中に
山法師という表現文字は有りましたが?
「山法師」と言うブログは見当たりませんでした。
山法師=「さんざし」の花と言う、歌を
舟木さんは歌っていますが、歌詞の中には
風邪の山法師は見つかりませんでした。
家族の中に「山法師」に関する事でも
有ったのでしょうか?
舟木さんは、1974年4月29日に
一般女性と結婚しています。
奥様は音楽大学を卒業されたと
聞いていますが、詳しい情報は
明らかでは有りません。
1980年に男の子が誕生しています。
名前は「上田純」さんです。
6歳の時に「風雲たけし城」という番組に
舟木さんと親子共演されました。
一般参加者に混じって出演されたようです。
父親と同じ芸能の道には進まなかったのです。
その後上田純さんは慶応大学に進学して
上場企業にお勤めのようです。
舟木さんは高校卒業で、息子には父親以上に
学問にはげみ、将来へと羽ばたく
人間になって欲しいと思っていたのでは!
好きな事をやって一般人として生きる
事を舟木さんは息子に教え託したのだと
私は思いました。
しかし、昭和の時代は、苦しくもあり
皆が、生きるために精一杯努力した結果が
高校生の純粋な気持ちを当時の
歌に映画で教えてくれたのだと思います。
まとめ
2021年11月から活動することを
ほのめかしています。
やっぱり、舟木一夫さんの名曲は「高校三年生」
https://ukiukiburogu.com/famous/2032/
https://ukiukiburogu.com/famous/1796/
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