
これからの季節は開花してゆく花
菜の花、あぜ道の小さな花々、
また、桜のつぼみもふっくらと季節の旅行が始まります。
コンテンツ
妻を茶屋に残して、娘とふたりで歩き始めた
「私はここで休んでいるから、二人で行っておいで」
妻は町家を改装した小さな甘味処の縁台に腰を下ろして、そう言った。娘と私は顔を見合わせた。
「じゃあ、行くか」
「うん、行こう」
それだけの会話で、私たちは石畳の道へと踏み出した。
古い町並みが、左右に続いていた。格子戸の商家、白壁の蔵、軒先に揺れる暖簾——時間がゆっくりと流れているような、そんな路地だった。観光客の姿もあったが、喧騒とは無縁の、落ち着いた静けさがあった。
後期高齢者の足には、石畳は少々手強い。娘がさりげなく、私の左側を歩いた。転びそうになったらすぐ支えられる距離で、でも手は繋がずに。その絶妙な気遣いが、何とも娘らしかった。
石畳の凸凹が、記憶を呼び起こした
一歩、また一歩と歩くたびに、石畳の凸凹が足の裏に伝わってくる。
その感触が、不思議と昔の記憶と結びついた。
娘がまだ幼かった頃——休みの日に、よく手を繋いで歩いた。小さな手が私の指をしっかり握って、娘はいつも私の左側を歩いていた。
今日と、同じ側だ。
「ねえ、お父さん」と娘が言った。
「何だ」
「昔さ、よくこうして二人で歩いたよね」
娘も、同じことを思っていた
私は少し驚いた。
今まさに同じことを考えていたからだ。
「覚えてるか、あの商店街」と私が言うと、娘はすぐに笑った。「覚えてる覚えてる!お父さんがいつもコロッケ買ってくれたやつでしょ」
そうだ。土曜日の午後、妻が買い物をしている間、娘と二人で惣菜屋のコロッケを立ち食いするのが、私たちの密かな楽しみだった。
「あのコロッケ、美味しかったなあ」と娘が言った。
「5円だったか、10円だったか」
「もっとしてたよ!」
二人で笑った。石畳の路地に、笑い声が小さく響いた。

父と娘の時間は、変わっていなかった
歩きながら、気づいたことがある。
あの頃と今とでは、立場が逆になっていた。
幼い娘の手を引いていた父親が、今は娘にさりげなく支えてもらいながら歩いている。頼る側と頼られる側が、いつの間にか入れ替わっていた。
でも——根っこにあるものは、何も変わっていなかった。
娘は今も、私の左側を歩いている。私は今も、娘の隣を歩いている。それだけで、胸の中に温かいものが満ちてくる。
親子というのは、こういうものなのかもしれない。
形は変わっても、繋がりの温度だけは、ずっと同じままなのだ。
城の石垣の前で、娘がぽつりと言った
路地を抜けると、小高い丘の上に城が見えた。石垣がどっしりと構えて、何百年もの時間を黙って背負っているようだった。
娘がその石垣を見上げながら、ぽつりと言った。
「お父さんってさ、この石垣みたいだよね」
「どういう意味だ」
「ずっとそこにいてくれる感じ。どっしりしてて、安心する感じ」
私は何も言えなかった。
後期高齢者と言われ、年寄り扱いされ、段差の少ない宿を予約される身になっても——娘の目には、まだそんなふうに映っているのか。
目の奥が、じんわりと熱くなった。第6話に続いて、またしても娘の前で目が潤んでしまった。まったく、歳を取ると涙腺が緩くていかんと思いながら、私は城を見上げたふりをして、こっそり目をしばたかせた。
茶屋に戻ると、妻が笑っていた
しばらく歩いて、妻の待つ甘味処に戻ると、妻はお茶を飲みながら穏やかな顔で待っていた。
「どうだった?」と妻が聞いた。
娘と私は顔を見合わせて、同時に言った。
「楽しかった」
妻はただ、嬉しそうに笑った。
最初から、分かっていたのだろう。
父と娘に、二人だけの時間が必要だということを——妻は何十年も前から、ちゃんと知っていたのだ。

縁台に腰を下ろして、三人で冷たい甘味を食べた。
城下町の午後は、ゆっくりと傾いていった。
石畳の向こうに、西陽がやわらかく伸びていた。
娘と歩いたあの道は、きっと死ぬまで忘れない。
いや——忘れなくていい。この歳になってできた、新しい宝物だから。
次回・第8話「旅館の夜、娘が『来年も来ようね』と言った。後期高齢者の父が、思わず目を潤ませた理由。」につづく……🏯
📝 読者の皆さんへ
親子の会話は、特別な場所でなくてもできます。でも——非日常の景色の中を並んで歩くとき、普段は言えない言葉がふと口をついて出るものです。 大切な人と、どこかへ歩きに行ってみませんか。 石畳でなくても、商店街でも、近所の公園でも——きっとそこに、かけがえのない午後が待っています。🏯🌿

