物質主義には「良い物質主義」なるものがある
と主張するのは無理がある。
物質主義はいつも悪いものだとされる。
私たちはお金や所有物に執着し、
浅薄で利己的になるか、物質主義を拒絶して善人となり、
精神的な重要な問題に焦点を当てるか、
という二者択一の選択肢に直面しているように見える。
しかし、実際には、私たちのほとんどが
この二つの選択肢の間で心の中で苦しんでいる。
私たちは依然として所有欲にとらわれているが、
それについてあまり良い気持ちにはさせられていない。
しかし、問題は物を買うことや所有物に
興奮すること自体ではない。
良い物質主義と悪い物質主義の区別を明確にしないことにある。
物質主義と宗教
宗教を通じて良い物質主義を理解しようとすると、
やや異例のルートを辿ることになる。
宗教は霊的なものに焦点を当てていると
見なされるため、宗教が物質的なものを
どれだけ利用してきたかに驚かされるかもしれない。
彼らは家に掛けるスクロール、神殿、寺院、
修道院、芸術作品、衣服、儀式などに
多くの時間を費やしてきたが、
その理由はただ一つ、魂の発達という最も
高貴で高貴な目的のために物質的なものを
望んでいたからである。
彼らは私たちが肉体的な感覚を持つ生きた
存在であることを認識しており、
私たちの魂に届く方法は知性だけではなく、
少なくとも部分的には私たちの身体を
通してでなければならないと認識していた。
物質主義とキリスト教
キリスト教の中心には何世紀にもわたって
物質的なものの重要性があった。
キリスト教では、イエスは最も高貴な霊的な存在であり、
同時に肉体的な人間であったと提案されている。
彼は霊を具現化した、カトリックのミサでは、
キリストの変化と信じられるパンとワインに
非常に重要な意味が与えられている。
すなわち、イエス自身が地上にいる間に
霊的なものと肉体的なものを組み合わせたように、
物質的な対象は同時に霊的なアイデンティティを
持っている。これは非常に奇妙で難解な点で、
地元のショッピングモールからは完全に
離れているように聞こえるかもしれない。
しかし、宗教の外でもまったく同じ概念が適用される。
物質的な対象と精神的な役割
物質的な対象は、そこに具体化された
高くてよりポジティブな理想があるとき、
私たちの生活において肯定的な心理的または
精神的な役割を果たすことができる。
それらが身体的なものに含まれていると、
私たちの思考や行動ではしばしば断続的に
なりがちな貴重な心理的特性が、より安定し、
弾力的になることができる。
これはすべての消費が便利に素晴らしい
ものになるわけではないということではない。
物質的な対象が何を表すかに依存する。
物体は人間の本質の側面、欲望、残酷さ、
勝利の欲求と同様に、最高の側面を具体化できる。
したがって、私たちはすべての物質消費を
非難するのではなく、また単純に称賛するのでもなく、
私たちが投資し、私たち自身や地球を
疲弊させる物体が、私たちのより高い良い
性質に最も励ましを与えるものである
ことを確認しなければならない。