こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事は演歌歌手でありながら
ポップスや洋楽を歌いこなす
島津亜矢さんです。
今最も歌唱力が大きな話題に
なって注目を浴びている
演歌歌手の島津亜矢さん。
遅咲きの歌姫としてブレイク中の
歌怪獣の島津亜矢さん改めて
幼い頃の生い立ちがどんな所で
育ったのかが気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
島津亜矢の生い立ち!
熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)は
熊本県の北部町で、西南戦争の歴史的
最大の激戦地である田原坂まで約2kmです。
そんな植木町で島津亜矢さんは
生まれました。
植木町は熊本市内から産交バスで
約40分ほどの台地に有ります。
すこし、地理的に植木町の
場所を紹介します。
熊本は熊本駅周辺は栄えておらず
中心部に辛島町に交通センター
バスセンターが有り、熊本県内の
発着所になっています。
そのバスターミナルを利用して
植木町までは約40分から1時間で
街の中心部に着きます。
出発地点から、熊本城の御堀
坪井川を渡り徐々に傾斜地を
上って行くと熊本市内を見下ろす事ができます。
バスは京町台地を北に向かって進みます。
街並みは徐々に少なくなって
国道3号線と交流して徐々に
狭い国道をバスは台地の上を走っていました。
幼い頃から熊本市内には
母親の久美子さんと一緒に
出かけて行っていたのです。
辛島町のバスセンターに着くなり
センター内の地下通路内には
食料品・衣料品・雑貨・薬局
食堂街は、熊本のラーメン店、
洋食屋の五車堂はハンバーグを
カウンター越しに頂きました。
地下道から地上に出ると
辛島公園の前に市電の駅が有り
歩道を渡ると下通りの入口です。
そこから、アーケード街が
連なって市電の通町筋へと
抜けることができウインドショップには
もってこいの街並みです。
それに、熊本の百貨店「鶴屋」が
通町筋から水道橋にかけて
立っていて、市民の買い物場として
栄えています。
鶴屋デパートでは、ラジオ番組で
2時から「ちょっといっぷく」が
サテライトスタジオで生放送してました。
当時はお母さんと一緒に、
島津亜矢さんが出演したかもしれません。
植木町からバスで約40分ほどの
所に在る熊本市内の場所は
たくさん、衣食住があふれている。
楽しい日々を送っていたのでしょう。
島津亜矢のプロフィール
- 本名:島津亜矢子(しまず あやこ)
- 生年月日:1971年3月28日
- 出身地:熊本県鹿本郡植木町(かもとぐんうえきまち)(現・熊本市北区))
- 身長:168cm
- 体重:63.5Kg(平均体重参考値)
- 血液型:O型
- 星座:牡羊座
- 学歴:熊本県鹿本郡植木・田原の小学校の二校どちらかを卒業
熊本県鹿本郡植木町立五霊・鹿南・中学校の二校どちらかを卒業
東京都目黒区日出高校・堀越高等学校のいずれかが出身校 - ジャンル:演歌
- 職業:演歌歌手
- 活動期間:1986年-
- 所属事務所:オフィス風
実家家族
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幼い頃育った場所は田原坂地!
そんな植木町で生まれた
島津亜矢さんは幼い3歳の時に
「ちびっこのど自慢」大会に
初出場してグランプリを獲得する。
その後も歌番組でグランプリを獲得
「天才少女」と呼ばれるようになった。
この町は、明治時代、田原坂は
政府軍と薩摩軍との戦の
戦場地になった西南戦争の場所です。
田原坂を北九州から来て田原坂を
超えたら、台地の上に上るのです。
植木町から熊本市京町台地3号線
は熊本城手前の新堀橋に繋がり
熊本城と同じ高さの台地ずっと
植木まで続いているのです。
その切れる場所が田原坂なんです。
今は地形的に言って田原坂を上がって
植木台地・北部台地・新堀橋までは
障害物がない台地なんです。
新堀橋から植木町までの掘り抜き道を
加藤清正が家来たちに台地の両側を
低くして掘りぬくように指示した。
その効果が現れたのは、攻撃から守るために
台地の底にいる敵人を射止めるための
道として作り上げたのです。
その道は今も健在で、
多くの車やバスが往来しています。
♪雨は降る降る じんばは濡れる
♪越すに越されぬ 田原坂
と歌われていますが
この歌は、薩摩軍が鹿児島の田原坂を
歌った曲だそうです。
それを兵士たちが田原坂違いで
歌い始めたのがきっかけだそうです。
それも、民謡として熊本で
歌い始められたのは昭和2年から
だから驚きです。
スイカが有名な植木町!
植木町は台地を利用して
スイカ作りが盛んな町です。
私は九州自動車道を走った時に
熊本から福岡に向かっている時
植木インター付近のビニールハウスが
一面に広がりハウスの中はスイカが
所狭しと丸い球がハウスの間から
観ることができました。
島津亜矢さんはJAのスイカ収穫所で
選別されたスイカを出荷する
アルバイトをしていたのかも知れません。
それにチャンスが有れば
色々なイベントに出演して
賞を頂いて、小学校に入る前に
100本を超えるトロフィー等
貰ってテレビ関係者から
「まさに天才少女」と絶賛していた。
当時作曲家の高木東六さんが
島津亜矢さんは「末恐ろしい」と
云わしめNHKのオーディションを
最高点で合格しました。
11歳の時に出場した「日本ちびっこ歌謡大賞」が
東京で行われ、見事優勝しました。
11歳の時に歌手になりたいと言う
思いが強く島津亜矢は志すことを決めた。
色々な大会に出場し優勝を果たし
13歳の時にレコード会社関係者にスカウトされた。
中学校を卒業して母親と一緒に
14歳で上京しました。
上京先は大物作詞家の星野哲郎さんに
弟子入り、本格的に歌を極める道に
進みました。
そして念願の演歌歌手として
本名「島津亜矢子」から芸名改め「島津亜矢」に
ついに1986年5月21日
「袴をはいた渡り鳥」で歌手デビューしました。
しかし、思うようにデビュー曲は
売り上げが上がらなかったのです。
島津亜矢さんは幼い頃から今までの自分が
100本以上のトロフィーを
優勝の記念に貰ったが自信が無くなった。
プロ歌手として理想と現実に
直面して、この状況を打開しようと
自宅に有ったトロフィーを全て
捨てて1からやり直すことを決めた。
全国の有線放送が流れるスナックや
キャバレーへ足を運び、下積みをしました。
6年間の下積みを送った島津亜矢さん
ようやくかすかに光が見えたのです。
「愛染かつらをもう一度」1991年5月に
発売され30万枚の売り上げを記録して
ヒットしました。
島津亜矢の生い立ち!幼い頃育った場所は田原坂!スイカが有名な植木町!
歌手の方の生い立ちを
調べていると、私と同じ町の人
だったんだと、記事を書いている時に
ふと思うことが有ります。
島津亜矢さんもその一人です。
植木町は昔は、国道3号線が
走る道路で南北に南は鹿児島
北は福岡への道として走ってました。
今は、5月にはスイカが出回り
夏の果物ではなくなりました。
道沿いにはスイカがずらっと
並んで売っていましたが
最近は少なくなりました。
植木町は地形的に言って
台地に位置するところで
田原坂は難所の一つでもあったのです。
車で通ると台地だとは感じなく
福岡の方からくるとなだらかな
傾斜地が続いて、感覚が無い。
そんな町で幼い頃を過ごした
「天才少女」は大人になった
植木町をどう感じているでしょう。
これからも、持ち前の演歌、カバー曲を
体に気を付けて、十分体調を整えて
歌い続けてください。
ご活躍を期待しています。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。