こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事は保険会社のCMに
歴史を感じさせる俳優の佐藤浩市さん
少し前に息子さんの官一郎さんも
俳優としてデビューされた父親は
佐藤浩市さんです。
また、佐藤浩市さんの父と言えば
昭和の歴史的俳優の三國連太郎さんです。
私が知っている父三國連太郎さんは
人吉で映画撮影の際
良く出かけていた食堂「茶びん」
ここは、和洋中勢ぞろい
特に手作りギョウザが有名で
お笑いの笑福亭笑瓶を連れて行き
九州に行った際は、必ず茶びんを
訪れていたと店主の奥さんが
話をしてくれた。
その茶びんは2020年の
球磨川水害で、跡形もなくなり
お店の人は、その場所を
去ったのでしょうか?
不明です。
そんな父親が訪れた場所には
九州で撮影が無い限り
訪れることは無いでしょう。
その父親の仕事を見て
いたかは定かでは有りません。
改めて、幼い頃の生い立ちが
どんな所で育ったのかが
気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
佐藤浩市の生い立ち!
NHK大河ドラマで上総広常(佐藤浩市)を
出演した「鎌倉の13人」シーンを見て
父の三國連太郎さんの
時代劇を思い出しました。
佐藤浩市さんは映画「青春の門」
「美味しんぼ」「HERO」と
最近はテレビドラマに出演中です。
画面から迫力ある演技は、
父の影響だと思います。
父、三國連太郎は1957年に
結婚して1960年に佐藤浩市さんが
産まれました。
三國連太郎は3度目の結婚でした。
当時の芸能人は、女性との付き合いが
当たり前のように、見て見ぬふりをしていた。
その為か、80歳以上のお金持ちは
二号さんと言って本妻さんとは別に
枕を共にしていた。
今では考えられない行動ですが!
父親の三國さんは当時から売れっ子
俳優でしたから、佐藤さんが
子供の頃はほとんど自宅には
帰ってこなかったのです。
ですから、結婚して僅か2年後で
佐藤浩市と母親を捨てて次の
女性の所へ、本妻さんの所に
戻って行ったのかも知れません。
その反面、佐藤浩市さんは子供の頃から
父の出演する撮影現場へ
見学に行ってきました。
小学生時代になって漠然と
俳優にあこがれていた。
小学5年生の時に両親は別居することになり
母親と二人が取り残された。
小学校に上がる前に正式に離婚しています。
二人は父親の仕送りで、賄っていたが
母親は離婚後小料理屋を経営して
家計を支えていました。
佐藤浩市を育て始めました。
中学時代は帰宅部で映画にはまって
新宿の映画館でかなりの本数の
映画を観ています。
佐藤浩市さんは中学時代体重が75kgと
中学生としては太り過ぎでした。
母親は佐藤浩市と一緒に過ごしているのに
耐えかねて、母親は彼氏を自宅へ
住まわせることにしたのです。
中学生と言えば思春期だったので
佐藤浩市は事実、受け入れることができず
高校2年生まで我慢していました。
佐藤浩市(さとう こういち)のプロフィール
- 本名:仲野 太賀
- 別名義:太賀(旧名義)
- 生年月日:1960年12月10日
- 出身地:東京都新宿区
- 身長:182cm
- 体重:62.1Kg(標準体重)
- 血液型:A型
- 星座:射手座
- 学歴:東京都千代田区立富士見小学校卒
東京都千代田区立九段中学校卒
私立昭和第一高等学校卒
専門学校多摩芸術学園・映画学科中退 - 趣味:音楽鑑賞・麻雀・競馬
- 特技:ギター・ゴルフ・乗馬
- 職業:俳優
- ジャンル:テレビドラマ・映画
- 活動期間:1980年-
- 配偶者:元モデル(1986年-1989年)
広田亜矢子(1993年-) - 著名な家族:三国廉太郎(父)
寛一郎(息子) - 事務所:テアトルド・ド・ポッシュ
育った地域は神楽坂・新宿!
子供の頃はひとりで家で
絵を描くことが好きだった。
母親と住んでいた神楽坂から
自転車で後楽園、武道館。北の丸公園
よく遊びに行っていた。
中学校の頃から新宿に映画館へ
ひとりで出かけて行っていた。
当時の封切り料金750円は
中学生には大金だったので
必ず、2回は観ていた。
つまらない映画を観ていた。
中学時代のニックネームは「サッパン」
中学生としては太っていた身長175cmに
対して体重は85kgと驚いていた。
高校生になってからは中国語研究会に
入部した。その理由は麻雀がしたくて
実態は麻雀サークルだったようです。
高校生になってからはオシャレをしたくて
ほとんど食べなくて3か月間で
20kgダイエットに成功した。
また、高校生の時は勉強に
真剣に取り組まずにさぼり常習犯で
先生によく怒られていた。
小料理屋から高校2年生の時に
父親同様に家を出て行きました。
以降30年間に渡り母親との関係は
断絶されました。
アパートで独り暮らしを始めた。
高校卒業して専門学校多摩芸術学園の
映画学科に進学しました。
映画製作を学んでいました。
当時は喫茶店でアルバイトをして
少しでも学費とアパート代は
稼ぎたいと思って働いていました。
専門学校1年生の時に知り合いの
ディレクターに勧められ
本格的に俳優を目指しています。
その為専門学校を1年限りで中退しました。
専門学校を中退して俳優への道を
志した佐藤浩市さんは父親の三國連太郎に
俳優になることを告げる。
父の三國連太郎は!
父親からの言葉が「僕は何も教えられないよ」
だったら親子の縁を切りましょうと
三國連太郎さんから言われたそうです。
わたしは三國連太郎さんの言葉は
マスコミには不仲と
捉えたのだと思いましたが
それは、父親としての
お祝いの言葉だったのです。
わたしは父親としてそう感じました。
当時は三國連太郎の息子と
という事もあって話題になっていた。
その後は持ち前の演技力で
数多くのテレビドラマ・映画・CMに
出演して、日本の代表する俳優に
なったのです。
佐藤浩市の生い立ち!育った地域は神楽坂・新宿!父の三國連太郎は!のまとめ
今は、新宿は大都会ですが
都庁が新宿に来る前は
新宿には小田急百貨店・京王百貨店
駅の中にデパートが有り
洒落た街だったのです。
その新宿も周辺が高層ビルに
建て替えられて、幼い頃の
思い出の場所が見つからなくなっています。
佐藤浩市は母親の小料理屋が有る
神楽坂から自転車で後楽園球場・
動物園・遊園地・九段下にも
足を延ばしていました。
北の丸公園・武道館の周囲800m
範囲の遊び場へ出かけては絵を
描いていたのです。
中学時代になってからは
映画を見るのが好きで
新宿まで中央線又は地下鉄を
利用して新宿東側の映画館へ
足を延ばしていたのです。
映画は当時は2本立てで
最初に最近のニュースが
流されて次の映画の予告編
少し休憩時間が有って
いよいよ本題の封切り料金750円は
どうやってお金を工面していたのでしょう?
母親からもらっていた?
まさか父親と逢ってもらっていた?
なんてことは無かったと思いますが
しかし、新宿までの旅費?
中学生は大人料金ですからね?
好きだった映画は、何回も、
嫌いな映画もお金を
出したからには
もとを取って帰らないと
と思っていたみたいです。
そんな少年時代を過ごしてきた。
これからも、俳優としての
志を忘れずに頑張って欲しいです。
今後の活躍を期待しております。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。