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高齢者長渕剛の出身地鹿児島、幼い頃の生い立ち!青春の思い出のひまわり!

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こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただきありがとうございます。

今回の記事は音楽シンガーソングライターで

俳優でもある長渕剛さんが東北の被災地を

全国の中で、東北の方々の顔が残って

今でも当時の温かさが残っていると

被災直後に思っていたのが読みがえったと

話しています。

長渕剛さんの心の温かさは、生まれ育った

出身地に思いが有っての行動だと思います。

そんな話しを聴き気になって幼い頃の生い立ちを

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

長渕剛の出身地鹿児島

鹿児島県は東に太平洋側と錦江湾(きんこうわん)を

中心に西側は東シナ海に囲まれ、雄大な活火山の

桜島が噴煙を上げて薩摩人を見守っています。

その中で、長渕剛少年は鹿児島の西側にあたる

日置市伊集院は鹿児島市と隣接する位置にあります。

最近は鹿児島市のベッドタウンとして発展して

いるそうです。

父親の職業は警察官度と言ってましたから
駐在所兼自宅に住んでいたのでしょう。

幼い頃は、市内を流れる神之川で遊んでいたのでしょう。


夏休みは両親とで江口浜海浜公園に海水浴を

楽しみに車で20分(11km)弱へ出かけて海産物を食べたり

東シナ海から流れ着いた、貝殻を拾ったり

延々と続く白い砂浜で、遊んで、夕方には

太陽が東シナ海に沈む時間が夏場は7時半頃まで

時間を忘れて遊んでいたのでしょうかね?

長渕剛さんの実家は警察官の父親の給料が

安かったから、自然の物に触れるように

工面して遊ばせていたのだと思います。

その後、駐在所移動で鹿児島市直木町に移ります

鹿児島市の管轄であった西の交番に

父親は勤務していました。


自然豊かな茶畑が多い台地に住んでいましたが

その後、鹿児島市内に長渕剛少年はあとにします。

鹿児島市内へ転勤する父親に連れられて

家族全員で、鹿児島市の警察官官舎ではない

長屋に住んでいたそうです。

長渕剛のプロフィール

  • 本名:長渕 剛(ながぶち ごう)
  • 生年月日:1956年9月7日
  • 出身地:鹿児島県日置郡伊集院町(現日置市)
  • 身長:173cm
  • 体重:70kg
  • 血液型:A型
  • 星座:おとめ座
  • 学歴:鹿児島市立中郡(なかごおり)小学校卒・習字・絵・珠算を習う
    鹿児島市立甲南中学校卒バスケット部・さえないガキだった。
    鹿児島県立南高等学校・帰宅部・3年間で300曲ほど作った。
    3年生の時は放送部長を努め、長髪のリーゼントで校則違反者だった。
    九州産業大学芸術学部写真学科(中退)
  • ジャンル:フォーク・・ロック・J-POP・エレクトロニカ
  • 趣味:ジープ・音楽鑑賞
  • 職業:シンガーソングライター・俳優・詩人・画家、書道家
  • 担当楽器:ボーカル・ギター・ブルースハ-プ・ピアノ・キーボード・和太鼓・バンジョー・パーカッション・ウクレレ・ホイッスル
  • 活動時期:1977年-
    レ-ベル:ビクターレコード(1977年)・エキスプレス/東芝EMI(1978年-1996年)・フォーライフ(1997年-2008年)ナユタウェーブレコーズ(2009年-2014年)・EMI RECORDS(2014年-2015年)・ユニバーサルGEAR(2015年-)
  • 事務所:Office REN(オフィス・レン)
  • 配偶者:石野真子(1981年-1983年)
    志穂 美悦子(1987年-)
  • 子供:長女(文音)、長男(WA航RU)離婚歴在り

 

実家家族

  • 父親:長渕邦治さん職業は警察官でした。現在は調査不明。
  • 母親:スマ子さん 一般の人です。(2000年8月72歳で死去)
  • 姉:5歳年上 一般の人です。(大分に住んでいます)
  • 長男:生後間もなく100日乳児期病死してます。
  • 次男:本人

幼い頃の生い立ち!

日置郡伊集院町徳重から日置郡上伊集院村

直木(鹿児島市直木町)でに移り住んだ後

鹿児島市管轄の西の地区から鹿児島市内に

移動になった。

最初に通学した学校は鹿児島市立中郡小学校からは

桜島が近くに見え、毎日の様に噴煙を

高々と上げていた。


学校で授業を受けて居ると、ドーンと音が聞こえ

桜島の噴火した爆音と爆風が学校のガラス窓を

振動させる日々が続く事もあったとみられます。

噴火したに市内西側に噴火した灰が

降り注ぐと、運動場の器具に付着して

なかなか取れないことが有ります。

長渕剛少年は、鹿児島市内(唐湊4丁目)、

伊敷町に住むようになって

小学校から高校まで、桜島の灰にどれだけ

被害に遭ったかわかりません。

今も続く桜島の灰を処理するのに、

生ごみとは別に市から支給される黄色い灰入れの

ビニール袋に灰を入れて回収されています。

長渕剛少年が小学校の頃は、

自宅の水道水を下水溝に流していた。

しかし、下水溝も灰の粘りで、中々流れない

その為に、いつの頃からか灰を入れて

回収をしている。


克灰袋「こくはいぶくろ」と言う名前で

販売されています。

年に100回以上桜島は噴火して鹿児島市内

灰が降り注ぎます。

鹿児島に住んでいる人は、大変な思いをして

暮らしていることを分かって欲しいです。

わたしも、たったの1ヶ月足らず

娘の家にお邪魔していましたが、

翌朝、玄関に出てみると灰が隅っこに

溜まっていたのを目のあたりにしたことが有りました。

そんな、ところで長渕剛さんは育っていったのです。

長渕剛少年は実家が貧乏だったせいか、生活も

苦労したと話しています。


鹿児島は南北に市電が走っていて、交通の便は

鹿児島中央駅を起点に便利です。

長渕剛が少年の頃は西鹿児島駅が特急電車の最終駅でした。

列記とした鹿児島駅は有りますが、今も昔も

余り栄えている駅では有りませんでした。

現在、西鹿児島駅名が鹿児島中央駅として

新幹線駅として変更されました。

駅の真正面には鹿児島のシンボル桜島が

帰郷した人々を迎えてくれます。

長渕剛少年は小学校では身体が弱く

体育の時間は見学が多かったそうです。

そんな少年は、東に西に北に南にと

鹿児島の方向には、春は早く、東から太陽、西は沈む行く

太陽が、北に白い煙の霧島、南に南国の香り

全ての花が咲くころは、夏のひまわりのように

風とその土地を現わしていると長渕剛少年は

幼い頃から思っていたのではないでしょうか。

通信棒には「落ち着きがない」と記入欄に

担任の先生から書かれていたそうです。

中学校に入学するとバスケット部に入部しますが

小学生時代から身体が弱かったせいで

1.2年生の時にレギュラー選手に成れず

「カルピス係」の飲料水係の担当。

ヤカンにカルピスを入れて薄め加減を作るのが

美味かったそうです。

部員から後輩が作ったカルピスの味が変わったから

カルピス係は3年生まで続けたそうです。


中学時代から音楽にハマり、フォークソングが好きだった。

中学3年生の時にガットギター(3,600円)を買ってもらいました。

大切に使用しながらこのような曲をコピーした事を語った。

高校生は鹿児島市内から南部の位置し自宅から

約1時間10分ほどかかって通学をしていた。

幼い頃から勉強が苦手で、音楽に対する気持が

徐々に芽生え、高校時代は大学祭の前座を

経験して友人とグループを結成「T&Tグループタケシとツヨシ」

鹿児島では徐々に知名度を上げた

高校卒業後大学を受験し福岡の九州産業大学芸術学部写真学科」に進学します。

大学は福岡市内より北に位置する場所に有り

鹿児島の錦江湾(きんこうわん)に似た、

博多湾が大学の高台からは一望に見えます。

ただ、噴煙をあげる桜島は無く、古代の島志賀島が

海の上に浮いているかのように見えます。

志賀島へは海の中道という道路を走って島へ行けます。

大学では写真学科で学んだことは、この頃から

デジタル技術を教育に取り入れ始めたばかり

長渕剛はデジタル技術むでは無く音楽への

道を20歳になる前に大学を中退したのです。

高齢者長渕剛の出身地鹿児島、幼い頃の生い立ち!青春の思い出のひまわりのまとめ

鹿児島の一人の少年が、未熟な体で、風土共に

桜島、お茶、魚介類、きびなご、かつお節、季節が早く

ひまわりも、所によっては早咲きの桜ではなく

黄色いひまわりが咲いている所もあります。

長渕剛ひまわりの歌は、声が森進一とどこか似ていて

渋さを歌にして世界のどこの土地でも育って欲しいと

伝えていると思いました。

東北の被災地は、鹿児島も同様、噴火の灰に悩む

人々がいる事を、知ってもらいためにも

太陽に向かって咲くひまわりを温かく

見守って欲しいと願います。

体力的には60歳、70歳の節目は

大事な年齢です。

健康に気を付けて、これからも歌い続けて

わたしを元気づけてください。

小田和正さんの幼い頃の生い立ち!若い頃の青春の思い出の場所は! こんにちは、自由 まなぶです。 わくわくブログに お越しいただきありがとうございます。 今回の記事は日本の音楽シンガーソングラ...

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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