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桂文枝の子供の頃の思い出の実家家族は!昔育った住まいの地域は!

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こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただきありがとうございます。

今回の記事は新婚さんいらっしゃいの司会者

桂文枝が降板と聞いて気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

大阪府大阪市大正区で桂文枝は生まれ育った

 

大正区は古くから水運が盛んで、海に面した場所は

埋め立てられた場所で、一部は人工島になっていて

遊歩道や桜並木が名称になっている北村南公園が有ります。

幼い頃の静也少年は、生後11か月の時

父・清三さんは野村銀行(りそな銀行)に

勤めていましたが、召集令状をもらったものの

戦地に赴く前に陸軍病院にて肺結核で死去。

戦時中は堺市内の親戚の家に母と疎開していたそうです。

母は静也少年を河村家に引き渡して離縁するようにと

言われ拒否して家を出て行方をくらました場所が

大正区に隠れて住みついたそうです。

静也少年尻無川に接岸している

工場用の船体が並んでいる場所で

ちょっと危険を伴った遊びをしていたのでしょうかね?

しかし、静也少年はもっぱら、勉強好きで

体育は苦手だったらしいから、どんな遊びを

していたのでしょうかね?

今もこの尻無川の水の色は、奇麗とは言えません。

工業地帯ですから、油が浮いた色(青色を中心に徐々に

黄金色に輪となってゆっくり流れて行きます。

わたしは、JRの大正駅に降りた事が有ります。

駅をでて「いわさきばし」を渡りながら

川の匂いが、工業地帯の鉄の匂いがしていたのが

印象的でした。

川と並行して乗ってきた環状線の鉄橋が

架かっています。

右手には、大阪ドームの宇宙船を思わせるような

ドームを見ることができます。

静也少年の時はドームは有りませんでしたから

大正駅から環状線に乗って大阪駅・梅田まで

10分ほどで行ける距離。

難波へは直線で2kmで歩いて行ったのかも知れません。

社会勉強をしに行っていたのでしょう。

桂文枝のプロフィール

  • 本名:河村静也(かわむら しずや)
  • 生年月日:1943年7月16日
  • 出身地:大阪府大阪市大正区
  • 身長:173cm
  • 体重:65.8kg(標準体重)
  • 血液型:O型
  • 星座:蟹座
  • 学歴:大阪市立北恩加島小学校卒(6年生の時に児童会長だった。)体育は苦手でした
       大阪市立市岡中学校卒(コーラス部に在籍・成績は学年トップクラスでした
       大阪市立市岡商業高等学校卒 演劇部の部長(現在2014年3月31日最終学年の卒業に伴って閉校した。
       関西大学商学二部(夜間部)中退
  • 師匠:五代目桂三枝
  • 名跡:1.桂三枝(1966年-2011年)
       2.六代目桂文枝(2011年-)
  • 活動時期:1966年-
  • 活動内容:上方落語
         創作落語
  • 配偶者:旧姓高橋真由美さんガンで闘病の末・死別(2021年1月)
  • 所属:吉本興業

実家の家族

1941年11月25日に2人は結婚

  • 父親:清三さん(入隊から1か月後陸軍病院で肺結核で死去)
  • 母親:治子さん(2021年1月25日老衰で死去)

桂文枝の家族

1972年3月2日結婚しました。当時の文枝年齢は28歳、真由美さん19歳、年の差9歳のカップルでした。

  • 妻:真由美さん(2021年1月24日がん闘病の末亡くなった)
  • 長男:三友事務所(文枝さんの個人事務所)
  • 長女:作曲家

中学時代は大正区の中で、西川きよしさんの

姉と同級生同級生であった。

また、高校生時代は先輩の直井正三(レツゴー正児)に触発され

演劇部に入部して、同級生と一緒に大阪のABCラジオの

「漫才教室」に出演して賞金稼ぎをこの頃から

始めていて、大阪では名の知れた存在となった。

高校を卒業した静也少年は、半年間郵便局に勤務し

夜間の予備校に通学して、1年間の浪人を経て

関西大学商学部第二部商学科(夜間部)に入学し

大学時代も学費を稼ぐために、夏はビアガーデン

それに、百貨店で夏冬の中元・お歳暮のアルバイトを

しながら少しでも家計の足しにと思い稼ぎました。

入学後に3代目桂米朝の口演を聴き、落語に興味を持つようになって

卓球部に在籍した後、1964年に創設間もなく

落研(通称落語大学)に一期生として入部しました。

大学時代に将来落語家と決意した出来事は

大学の時に早稲田大学の落語研究会に所属していた

都家西北が6代目三遊亭圓生に弟子入りの

話を聞き、この時自身も落語家になる事を

決意したのでした。

チャンスは番組出演で知り合った

藤井康民(松竹芸能部員)さんに桂小文枝の

弟子になりたい旨を打ち明けた。

高校時代の先輩2代目桂春蝶に師匠のところへ

稽古に行くかからついてくるかいと聞かれて

同道して、弟子入りを志願しました。

大学では嫌いだと言われて、藤井さんの計らいで

何とか、弟子入りが叶ったのです。

入門までは紆余曲折が有って、母を騙して

大学を中退してまで落語家になったのです。

初舞台に立ったのは道頓堀角座で演目は
「煮売屋」を披露した。

吉本では同じ月に京都花月が初舞台だった。

入門直後、大阪から徒歩で5日間掛けて

伊勢神宮に参拝した。

伊勢神宮迄歩いて参拝したかの理由が

 

自分の落語があまりにも旅をしている光景が

感じられないと師匠に言われて、

自分が歩いて、周囲の出来事を身に着けて

実践するこで伊勢神宮参拝の落語が成立すると
思ったのではないでしょうか。

上方落語「伊勢参宮神乃賑」別名「東の旅」より

「発端」を桂米朝一門に入門すると最初に習い

習得しなければならない。とされている。

自分の体験を桂文枝は、東の旅の経験を

落語に生かし、お客さんに披露したのです。

その後、MBS毎日放送ラジオの番組に出演して

その番組は「歌え!MBSヤングタウン」でした。

この時のキャッチフレーズや「オヨヨ」、

「いらっしゃ-い」「アリーッ!」などの

ギャグがヒットして一躍大人気になりました。

その後、テレビのバラエティ番組「ヤングおー!おー!」

「新婚さんいらっしゃい」の司会者として抜擢されて

大阪からの放送が全国区で流されて、

一躍人気者になって行ったのです。

1971年1月31日から始まった

新婚さんいらっしゃいの最初の司会者は
桂文枝・月亭可朝・江美早苗の3人体制で始まった。

51年間、司会者として努めてきた6代目桂文枝さんが

3月27日の放送をもって勇退と本人から

発表されました。

桂文枝の子供の頃の思い出の実家家族は!昔育った住まいの地域は!のまとめ

51年間という半世紀を飽きもせずに

椅子から転げ落ちる、ギャグは大阪人らしい

振る舞いは全国の人に親しまれつつも

今度は後期高齢者で階段から転げたら

命取りになりかねませんからね。

しっかり、段差に気を付けて、舞台に立って

落語を伝えて欲しいものです。

本当にお疲れさまでした。

落語は皆の心を癒してくれます。

個人の空想をよりいい感動を伝えて下さい。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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