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こんにちは、自由 まなぶです。
「わくわくウキウキブログ」に
お越しいただきありがとうございます。
今回の記事は演歌歌手の氷川きよしの
生い立ちとや今年一杯で活動休止と
気になったので記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
最後までお付き合いの程、よろしくお願いいたします。
氷川きよしの生い立ち幼児期から小学時代
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きよし少年は内気な性格で、母親の後ろに隠れて
人見知りをする子供だった。
わたしも3歳児の頃からの記憶が有ります。
きよし少年が3歳の時に、父親の父方の叔父さんに
長い髪をバリカンで刈り上げられたそうです。
母親がきよしには髪の毛を切らなくてもいいんです!
と言って泣いていたのをきよしが観ていた事
幼い子供の心の記憶だった。
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小学校時代のきよし少年は、このころから中性的で
女の子と仲良くなる事が多かったと聞きます。
負けず嫌いでもあったそうです。
多くの女の子と遊ぶようになり、男の子と遊ぶ事が
好きではなかったみたいで、同級生の男の子にいじめられたり
からかわれた経験があると明かしています。
学校の同級生とはなじめなかったために
従姉妹の女の子といつも一緒に遊んでいたようです。
実家は市営住宅2Kの部屋に住んで
父親の仕事はタクシーの運転手、母親はパート勤め。
きよし少年はこの頃、祖母に連れられて松田聖子の
コンサートに行き、奇麗な衣装、歓声をあびながら
歌う松田聖子にの姿を見て刺激を受けた。
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親戚で旅行に出かけた時に、皆から「歌って」と
せがまれて、「赤いスイートピー」を歌った。
親戚からは大絶賛!拍手喝采が忘れられない。
思い出となって、歌手絵の夢に目覚めて行くのです。
福岡の小学校・中学校・高校は、自宅の市営住宅からは
遠くは無かったみたいです。
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中学校に入学してからは、中性的でしたから
クラブ活動もせずに、新聞配達のアルバイトをしていたそうです。
新聞は毎日新聞ですかね?
中学生の時の体重は?ぽっちゃりで
あだ名が「デブきよし」と呼ばれていて、大嫌いなあだ名!
中学卒業までには見事「寒天ダイエット」大変身、努力のかいが有ったみたいです。
高校生時代・福岡第一商業高校「インテリアデザイン学科に入学
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高校の選択授業に福岡県では珍しい芸能コース講座が有りました。
高校の選択授業に氷川きよしさんは歌手になる夢を持っていたことで
芸能講座を受講します。
講座の山田先生は氷川きよしに演歌を歌うことを勧められ
演歌を歌うようになったそうです。
きよしさんの話では、山田先生は80歳近い先生で
「演歌しか教えられなかった先生だそうです」
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当時、芸能コースに最初に入った100名の人達は
90人辞めて」10人程度になってしまったそうです。
山田先生は「きよしさんに演歌歌ってくれんかね」
泣きつかれたそうです。
先生はよほど困っていたのでしょう。
きよしさんは山田先生が可哀そうだと思った。
演歌に馴染みがなかったため
「演歌がわからんとです」
先生「いやちょっと覚えてくれんかね」
きよし「分りました覚えてみるけん」と博多弁で
覚えて歌ったら生徒たちに評判が良く
山田先生の目から涙が絶え間なく零れた。
きよし少年は、それがきっかけで演歌を
歌い始めたのです。
きよし少年は部活は芸能部に所属してました。
老人ホームを慰問した際、演歌を歌い高齢者の方が
きよしさんの歌声を聴き、泣き崩れる人や喜んでくれる人を観て
演歌歌手になる事を決意します。
高校生時代から人の心に感動する様な素晴らしい歌声の持ち主です。
高校3年生の時に出場した歌番組のコンテストで作曲家・水森英夫氏に
才能が認められスカウトされて、卒業後に福岡から上京しました。
上京した氷川きよしが目指すのは歌手デビュー。
現実はそう甘くありませんでした。週一回、2時間の発声練習を受けるのみ
残りの6日はアルバイトに明け暮れる日々、
デビューの予定はまったく見えませんでした。
頼りになったのが、福岡で暮らす母親でした。
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母親と電話では「辛かったらいつでも帰っておいで」と
「大丈夫、大丈夫」と慰めてくれたそうです。
電話代が聴くところによると4万円を超えた事があったそうです。
その後、3年の努力が実り、演歌歌手としてデビューしました。
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2000年2月に「箱根八里の半次郎」で演歌歌手としてデビューします。
プロフィール
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- 本名:山田清志(やまだ きよし)
- 別名:KIYOSHI
- 生年月日:1977年9月6日
- 出身地:福岡県福岡市南区
- 身長:178cm
- 体重:62kg
- 血液型:A型
- 星座:おとめ座
- 学歴:福岡市立大楠小学校卒業
福岡市立高宮中学校卒業
福岡第一高等学校卒業 - ジャンル:演歌・J-POP・ロック
- 職業:歌手
- 担当楽器:ボーカル
- 活動時期:2000年-2022年
- レーベル:日本コロンア
- 事務所:長良プロダクション
氷川きよしの生い立ちと家族構成!活動中止は父親と母親のために!のまとめ
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22年間歌い続けた氷川きよしさん
コロナの切っ掛けで、きよし自身の
人生を振り返ったのでしょう。
コロナ禍で人と人が出会うことが
出来なくなった。
また、大勢の人との場所で歌うことが
出来なくなった。
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また、会いたいけど会いたい人に
感染するから会えなくなった。
芸能人の方々もこの2年間は仕事が
無いのと等しいくらい仕事がない。
その結果、氷川きよしさんも同様に
歌うことが無くなってきている。
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思い起こせば22年間歌い続けていた
その頃と今はまったく違ってきた。
氷川きよしはこれがチャンスだと思って
父親と母親に孝行しようと思ったのでしょう。
一旦、歌から離れて、母の家事を
きよしは孝行しようと思った。
その為に、歌手活動を活動休止して
実家での家族サービスに徹底して
今までの親孝行分を活動休止中にやってあげたいと思ったのでしょう。
ただ、氷川きよしのファンは活動を復活して欲しいはずです。
氷川きよしの活動は6年後の50歳から
と思いますが、もう少し復活するのが
始まるのかもしれませんね。
今は、ご両親を孝行してあげて欲しいものです。
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今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。