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清水卯三郎と渋沢栄一は年の差11歳、 故郷は埼玉羽生、深谷の生まれ

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清水卯三郎(うさぶろう)は今の埼玉県羽生市の
酒造りの清水家に根岸家貞子最初嫁いだが
二児を残して若死に、その後、貞子の妹
登美子が清水家に嫁ぎ、8人の子供を授かり
子宝に恵まれその中の長男が卯三郎である。
卯三郎は1829年文政12年3月の生まれで
であった。
渋沢栄一は11年後の1840年天保10年
3月16日の生まれでこの年は2月11日に
日本神話に基づき建国2500周年祭が
行われたと記載されています。

ところで、二人の年の差は卯三郎が
11歳も年上ですから、栄一郎が小学校
1年生であったと仮定した場合、
卯三郎は高校3年生です。ずいぶん上の
人物だったのですね。

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その二人が出会うのは、ずーと先での出会いとなります。
卯三郎は1829-1910年幕末から明治にかけての商人として活躍した人なんです。
幼い頃は勉強嫌いで、いたずら好き。
17歳の時漢学者の森玉岡からおしえ受け、
勉学に目覚め始めた。
母方の父根岸友山,の家(現在の熊谷市)で
漢字、数学、化学などを学び後、
江戸に出てオランダ語をはじめ、
ロシア語、英語を習得するのですが
ビジネスにはロシア語、オランダ語より
いち早く英語を話せるようにした方が
良いとその時思ったそうです。
それから、海外へ出向いて行く時は
必ず通訳を交えての交渉事は英語を
特に重視して話をしたと書かれています。
安政4年(1857年)の年には、
長崎海軍伝習所で勝海舟と知り合い
になり、互いが親密な関係を
築いて行きます。
箕作阮甫(みつくり-げんぽ)にまなぶ。
慶応3年(1867)パリ万国博の時に
渋沢栄一と合流して商人らしさを
紹介。日本の伝統工芸や茶室、芸者
とにかく海外の人が目をみはるばかりの
品々を初めて日本と言う国の商品を
紹介して日本と言う国を知ってもらうために
茶室では芸者がお茶を博覧会に来た
お客様に振舞ったと書かれています。
その事が評判になってナポレオン3世から
清水卯三郎と名前入りの銀メダルが
送られたのです。
卯三郎はパリから大西洋を渡り
アメリカに渡り美術品を紹介,陶器絵の具,
石版印刷器械をもちかえる。
東京に瑞穂屋をひらき,洋書や歯科医療器具
などを輸入販売。

商人としての活躍を見せた卯三郎は
実家のあった羽生は当時篤姫時代で江戸時代
無血開城となって、自宅も官軍の手によって
焼失した事で、卯三郎は帰国後、日本には
文化の発展が不可欠だと考えいました。
その後福沢諭吉らが名を連ねて明六社に参加し,仮名文字普及を提唱しました。
清水卯三郎は埼玉県羽生市の祖先の眠る「正光寺」の境内に墓碑は建っています。
1910年1月20日死去82歳でした。
羽生駅から大天白公園近く徒歩20分の所に
お寺の正光寺が有ります。参道前には松が
お迎えしています。

2025年には大阪万博が有りますが、吉村知事は
常にアピールの為かポロシャツの右胸のロゴが
2025万博の年を現したマークを付けての
記者会見は見事だと思います。
まだ、清水卯三郎が生存して居たら
日本での世界万国博覧会の開催が行われるのは
卯三郎有っての開催でしないでしょうか。
5万4千人の市の町から日本の国を良くしようと
羽ばたいた人が居たとは、今の若い人には
分ってもらえないかもしれません。
わたしも、銅像を見てはじめて知ったのです。

今日も、最後まで読んでいただき
有難うございました。

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