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北原ミレイの生い立ち!子供の頃父親の影響で歌好に!高校生時代はテニス!

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こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は演歌が似合う

北原ミレイさん。

昨年、歌手デビュー50年を

迎え通算59枚目のシングルは

演歌と思いきやリズミカルで

ダンサブルな楽曲「薔薇の雨」を

歌う北原ミレイさんです。

来年は後期高齢者の仲間入りです。

昭和時代にナイト・クラブなどで

歌って歌唱力を磨いていた北原ミレイさん

若々しく艶やかでボイス力が

伝わってきます。

3年前に世界中に広まった

コロナの影響で歌手活動が

大きく制限されて新曲を

披露して北原ミレイさん自信が

高齢者とは思えないほど

元気をもらって元気ハツラツでした。

幼い頃の生い立ちがどんな所で

育ったのかが気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

北原ミレイの生い立ち!

豊川市は愛知県の南東部に位置し

豊川稲荷として有名な場所です。

その豊川市で北原ミレイさんは

生まれました。

両親の仕事は自営業で

工場を経営する傍ら、演歌好きな

父親は北原ミレイさんに演歌を

よく聞かせてくれた。

日々音楽は演歌が工場内に

響き、父親は演歌を口ずさみ

朝から晩まで忙しく働いていた。

豊川と言えば新幹線を製造している。

日本車両が有り、北原家は

部品の一部を納入していた可能性があります。

北原ミレイさんが生まれてから高校生の時

1964年に東京大阪間を走る

新幹線がここ豊川の工場から運び出された。

この年は、東京オリンピックが開催された。

まだこの時は北原ミレイさんは

高校生だったのです。

北原ミレイのプロフィール

  • 本名:南 玲子(みなみ れいこ)
  • 生年月日:1948年7月18日
  • 出身地:愛知県豊川市
  • 身長:158cm
  • 体重:54.9kg(平均体重参考値)
  • 血液型:B型
  • 星座:蟹座
  • 学歴:愛知県豊川市立牛久保小学校卒
       愛知県豊川市立南部中学校業
       愛知県私立桜ヶ丘高等学校卒
  • 趣味:豪快なショッピング・お料理・お裁縫・ドライブ
  • 特技:テニス・手先を使う全般(器用)
  • 職業:歌手・女優
  • ジャンル:演歌・J-POP・歌謡曲
  • 担当楽器:歌
  • 活動期間:1969年-
  • レーベル:東芝レコード→ワーナーパイオニア→SMSレコード→徳間ジャパン
  • 事務所:ミレイ

実家家族

  • 父:演歌の歌が大好きな工場経営者
  • 母:一般の方です。歌手になるのに猛反対だった。
  • 長女:一般の方です情報は見つかりませんでした。
  • 次女:本人

子供の頃父親の影響で歌好に!

幼い頃から演歌を中心にラジオから

蓄音機から流れて来る曲に耳を済ませていた。

北原ミレイさんが幼くして幼稚園から

小学校へ通うようになって

歌が好きになっていきました。

工場で働いている両親に

「少しでもミレイの事を

気にしてほしくて」工場のプレスの音より

負けないくらい大声で歌った。

北原ミレイさんの歌の原点となりました。

北原ミレイさんはスポーツが万能

中学校に入学すると軟式テニスに入部して

練習を重ね、中学時代の成績は

優れたスポーツマン的な能力を持ち

学校では少し有名人でした。

その間も音楽への道をあきらめず

両立しながら中学校を卒業しました。

高校生時代はテニス!

中学校を卒業して高校は

テニスの特待生として入学しました。

進学校の先輩に歌手・大津美子さんの

出身校だと知って、高校2年生の時に

浜松市まで約1時間ほどかけて

新幹線で通っていた。

それも週2回のレッスンを作詞作曲家

兼歌手の佐伯一郎さんから

受けていました。

桜ヶ丘高校は硬式テニスでは

多くの多くの卒業生がいます。

強豪の様です。

北原ミレイさんは特待生として

入学していました。
かなりのハイレベルの凄い持ち主だった。

その事がわかっていて、母親は

北原ミレイさんが高校卒業間近になって

「歌手になりたい」とお願いすると

猛反対されて、幾度も頭を下げて

お願いしたそうです。

母親は、東京に行くなら

お姉さんと一緒に暮らすことを

それを条件に上京しました。

高校卒業して上京後、

歌謡界の接点を持つために

ナイト・クラブが多く点在する

銀座・赤坂・六本木で歌った。

その間ヘンリー倉田さんを始め

浜口倉之助さんにジャズ

大本恭敬さんにカンツォーネ等

バリエーションの多い作曲家に

師事して実力を磨いたのです。

たまたま、ナイト・クラブで

唄っている北原ミレイを見て

芸能事務所を紹介された。

歌声を作詞家の阿久悠さんに

見いだされ、22歳の時に

阿久悠作詞・村井邦彦作曲

「ざんげの値打ちもない」でデビューしました。

しかし、新人ながら「歌詞」を見た時に

なんで私がこんな歌を歌うの?

しかも、ざんげする曲なのに

派手なワンピースを着て

ピンクのショールこれって

ざんげどころかリリース3ヶ月ぐらいは

レコードは売れませんでした。

思い切って、この曲のイメージを

「笑わない・喋らない・うつむいて唄う」

事を徹底して、自分とは裏腹に

好きだった喋り、偽りの北原ミレイを

演じなくてはならなかった。

それが辛く、体重が10kg瘦せたそうです。

ャケットの見直しを漫画家の上村一夫さんに

ジャケットのイラストをお願いして

徹底的なイメージ作りを行った。

努力のおかげでざんげらしくなったと

ヒットした。

北原ミレイは歌手になるために

こんなことまでして歌手になったんじゃないと

阿久悠さんに話をした。

阿久悠さんは後になって

この曲は北原ミレイにしか歌えないと

と言われ、今も歌い続けられる

北原ミレイの代表曲が生まれたのです。

北原ミレイの生い立ち!子供の頃父親の影響で歌好きに!高校生時代はテニス!のまとめ

愛知県豊川市は南東部に位置し

三河湾に接し、立地的には

風光明媚なところで、生まれた。

北原ミレイさんは、父親の演歌好きが

幼い頃から自然と身体に

溶け込んで、工場のリズムかるな

プレスの音が音楽として

伝わっていたのだと思います。

その為か、リズミカルな音を

身体に包み込むことで身体能力も

上り、スポーツ万能だったと言われています。

そして、音楽にも興味を示し

豊川から浜松市へ約1時間半かけて

週二回通っていました。

父親の演歌の影響が北原ミレイ

音楽の道へ、高校生の時は

硬式テニスを練習して

同校にはプロテニスプレーヤーが

いるほどの伝統あるテニス部

もし硬式テニス部に所属していたら

頃は名コーチか監督を

していたかもしれません。

既に後期高齢者の仲間入りに

近づいている北原ミレイさん

まだまだ、若さがタップリ残って

現役で歌っている姿は

これからも健康で、歌を楽しんで

私達に伝えて下さい応援します。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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