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佐久間良子の生い立ち!幼い頃の疎開先は福島の桑名!若い頃から美人!

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こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は大女優の佐久間良子さん

既に後期高齢者ですが

俳優時代は美人で演技も上品で

映画の中に溶け込んでいた頃の

美しさを今も保ち続ける訳は

幼い頃に遊んでいた場所が

どんな所で育ったのか

気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

佐久間良子の生い立ち!

女優歴60年以上の大女優の佐久間良子さん

昭和から平成、そして令和の時代に

入っても活躍されています。

東京都練馬区桜台の高級住宅地と

知られる場所500坪程の邸宅を構えて

というほど富豪の生まれです。

佐久間さんのお父さんの仕事は
軍医で、満州に従軍していました。

終戦前の小学校に上る前の6歳の時に

東京が空襲に遭うため、集団疎開に

行き先は群馬県磯部です。

磯部温泉町は温泉マークの発祥の地でもあります。

その町で過ごしていました。

やせ衰えた佐久間さんを父親が見て驚き

すぐに引き取り、家族と一緒に

新たな疎開先の福島県伊達郡桑折町

移り住みました。

佐久間良子のプロフィール

  • 本名:佐久間良子(さくま よしこ)
  • 生年月日:1939年2月24日
  • 出身地:東京府東京市板橋区 現・東京都練馬区中新井町
  • 身長:158cm
  • 体重:54.9kg(標準体重参考値)
  • 血液型:O型
  • 星座:魚座
  • 学歴:疎開先
    福島県伊達郡桑折町の小学校(3校あります)
    練馬区立開進第三小学校に編入
    私立川村中学校卒
    私立川村高等学校卒
  • 趣味:読書・観劇・美術品鑑賞・カラオケ・ゴルフ
  • 特技:料理・書道
  • 職業:女優
  • ジャンル:映画・テレビドラマ・舞台
  • 活動時期:1958年-
  • 活動内容:1958年:デビュー
    1981年女太閤記
    1989年大原麗子と共演
    2012年旭日小綬章
  • 配偶者:平幹二郎(1970年-1984年)
  • 著名な家族:平岳大(長男)
  • 事務所:ORPHe

実家家族

  • 父親:軍医後製薬会社のサラリーマン
  • 母親:人体模型を日本で開発した制作者所の長女
  • 長女:本人
  • 次女:3歳年下
  • 長男:6歳年下の弟

家族

  • 父親:平幹二郎(1970年-1984年)
  • 母親:本人
  • 長男:双子平岳大
  • 長女:双子朋子さん一般の方です。

幼い頃の疎開先は!

疎開先の福島県伊達郡桑折町は

東北本線で蒸気機関車で295kmを

時速約80km/h走行していたと思われます。

長旅で福島県の約55駅の桑折に疎開していました。

今は新幹線を利用し在来線で

2時間40分で桑折町に到着します。

桑折町(こおりまち)は福島県中通り

北部に位置して、宮城県との県境に近く

国見峠を超えると白石蔵王に向かいます。

自然豊かな桑折町は西側には山がそびへ

東側には阿武隈川が流れて戦前から

フルーツの栽培が盛んな場所でもあります。

佐久間良子さんは春先になると、

春の花の木梅の花、桜の花、桃の花、リンゴの花が

一斉に咲き、地元の人を和ませてくれます。

福島には、三春という場所が有って

梅、桃、桜が一斉に咲く事から名付けられた

場所が有ります。

桑折町はそんな中でも、春先に咲く花は

ピンク色した桃の花が咲き誇り、

美味しい桃を育てています。

佐久間良子さんも、疎開先では

桃の花粉付けを手伝っていたのかも知れません。

当時は小学一年生でしたから遊びは

川に魚を捕まえに、山には山菜取り等を

手伝っていたと思われます。

桑折町で山里の経験を生かして

野山での花の名前、木々の名前を

疎開先の農家の方に教わって

自由気ままに幼い頃を過ごしていたのです。

今の桑折町は桃の産地として、有名になりました。

7月終りから桃の収穫が始まり8月の始めには

桃を宮内庁へ献上したのは平成6年から

毎年ももの糖度12度以上を皇室・宮家へ

送られています。

わたしも桑折町に8月始めに必ず仕事場所を

出張先にして、JAふくしま未来農産物直売所で

糖度12度以上のキズ物を箱入り限定500円を

コロナ前は並んで5箱買って帰っていました。

とにかく甘くてジューシーで、お土産で挙げると

とても喜んでくれました。

桑折町は盆地特有の寒暖差の厳しい気候が

果実栽培に適していて品質の良い桃の産地として

栄えています。

佐久間良子さんはまだ、小学生で居ながら

可愛い小学生だったと思います。

それは、佐久間良子さんにとっては美しく

桃の花のピンク色が映えて、桑折町に

溶け込んでいったのです。

その思いは今でも変わらないと思います。

戦後になって、実家は空襲に遭わずに済んで

東京に戻って開進小学校に編入しています。

東京では実家の庭で遊ぶことが多かった。

福島で自由に遊んでいたことで少しは

コンプレックスを感じたのかも知れません。

中学校はお嬢様学校で知られる川村中学校に

入学しました。校則が厳しく廊下を走ると

先生に叱られていた。

小学生時代から徐々に美貌で校内ではマドンナ的

存在で同性から文を貰っていた。

中学一年生の時に文化祭で知り合った

3歳年上の音楽少年と初恋、ラブレターを書き

一緒に何度か映画を見に行った。

初恋の少年は数年後に何の病気かわかりませんが

亡くなったのです。

ダンスパーティーに行くと男の子が達が

周りを囲んできたことが有った。

少し不良っぽくした時期もあった。

書は自己流で書いてコンクールに提出する

時には練習本番を何百枚書いてその中から

選んで「夢」と書いた作品が日展に入選した。

中学生活を終えて、高校に進学しましたが

川村高校は一貫校であったことから

中学校と同じ敷地内に有り、

中学時代バス通学から電車通学になると

通学路の西武線沿線の男子学生のファンができ

佐久間良子さんが知らない間に「西武線のマドンナ」

として評判でした。ファンクラブが有ったかは定かでは

有りません。

若い頃から美人!

高校を卒業後は短大を出て、どこかにお嫁に行こう

と漠然と思って進学先の短大には学費を納め

茶道や華道などの花嫁修業にも励んでいた。

高校三年生の時に高校の先輩で

東映女優の小宮光江さんから声を掛けられ

「東映撮影所で運動会があるからいらっしゃい!」

と誘われて全く映画界には興味が無かったのですが

どんな所か勇気を出して会場に行きました。

運動会会場の正面のテントの中に案内され

東映の人に美人がジロジロみられ居心地が悪かった。

運動会が終わると、そのまま高級外車で自宅まで

送ってもらいました。

後日、佐久間良子さんが学校から帰宅すると

黒塗りのハイヤーが駐車して、自宅の中では

佐久間良子さんを東映のスタートして育てさせてください

と東映の幹部がお邪魔して話し合っていました。

両親は芸能界入りすることに猛反対していました。

申し出に強硬にずっと反対していました。

東映の説得は一週間ほど続きました。

そんな中、佐久間良子さんは両親の反対に

胸の中に芽生えて、私は決めました。

「1年限りでもいいので女優として挑戦します」

と宣言したのです。

翌年の東映ニューフェイス第4期生で水着審査を

拒否しましたが補欠合格し東映に入社しました。

入社後半年間俳優座養成所で研修を受けた。

1958年19歳の時に映画「美しき姉妹の物語・悶える早春」の端役で女優デビューしました。

佐久間良子の生い立ち!幼い頃の疎開先は福島の桑名!若い頃から美人!のまとめ

戦時中に東京での練馬で裕福な

両親のもとで生まれ、戦争中は東京にも

空襲警報が鳴りやまない日々もあって

東京から、群馬県磯部に一度は疎開します

しかし、佐久間良子さんはその土地に合わなかったのか

痩せ衰えた姿を見た両親はすぐに引き取り

東京の実家名帰ってきましたが

東京は空襲警報が鳴りやまず、次の疎開先を

探していました。

その疎開先が佐久間良子にとっては

山に川に空気が美味しく、果物も果実が実り

佐久間良子にとっては健康で過ごせる

場所だと思って自由気ままに過ごしていたと思われます。

そんな場所から離れたくないと思って

山菜、川魚、果実(桃、ぶどう、りんご)が

収穫できる桑折町は盆地でもあり

気温の変化も大きく、果物にとっては

最高の場所だったのです。

そんな場所から離れる日が来ます。

思いは、疎開場所それに小学校で学んだこと

桑折町で学んだことを東京に帰って

生かしたことが沢山あったのだと思います。

今の後期高齢者になっても幼い頃の

思い出は、思い出すほど懐かしく感じ

もう一度、子供に帰るなら、疎開先の桑折町で

幼い頃の思い出遊びを体験してはと

思いました。

もう、後期高齢者が歩けるのは健康で

ある事が第一ですし、佐久間良子さんは大女優として

これからも奇麗で健康で俳優として芸を見せてください。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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