こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事はデビューから56年目の
山本リンダさんは昨年55周年を迎え
新たにシングルを発売。
♪どうにもとまらない♪の歌いだしで
つい口ずさみたくなる曲です。
姿を見ても変わらない人気が有りました。
高齢者以上の方は懐かしいと思うでしょう。
山本リンダさん高齢者で有りながら
歌い続けられる秘訣は幼い頃に
遊んでいた場所がどんな所だったのか
出身地が気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
山本リンダの生い立ち!
父親のマイクさんと母親の百合子さんの
出会いは、福岡県小倉で出会ったのでしょうか?
百合子さんは小倉のキャバレーで踊っていて
そこへ、朝鮮半島で南北戦争(昭和21年頃)が起きている
中で、日本列島で朝鮮に近い場所の港が
小倉だったのでしょうか?
地形的にも小倉は、本土と九州の玄関口で
小倉の町は、当時は石炭採掘の場所でもあり
その小倉の町を仕切っていたのは、
東映の映画で紹介されている仁義の場所でもあります。
その場所も今は、昭和の時代を残しつつもあり
現代の趣を持った町に変わっています。
そんな街で4歳まで育った山本リンダさんは
小倉の町の記憶はほんの少し残っていますかね?
山本リンダのプロフィール
- 本名:稲葉 あつ子
- 旧姓:山本 あつ子
- 生年月日:1951年3月4日
- 出身地:福岡県小倉市(現・北九州市小倉区)
- 身長:168cm
- 体重:50.8kg(モデル体重)53.6kg(美容体重))
- 血液型:O型
- 星座:魚座
- 学歴:神奈川県横浜市立神橋小学校卒
神奈川県六角橋中学校卒
横浜港高等学校(現・横浜市立横浜総合高等学校2002年統合) - 趣味:山歩き・水泳・エアロピックス・健康法
- 特技:茶道
- ジャンル:アイドル歌手
- 職業:歌手
- 活動時期:1966年-
- レーベル:ミノルフォンレコード
キャニオンレコード
徳間ジャパンコミュニケーションズ - 事務所:リンダ・ミュージック・オフィース
実家家族
- 父親:マイクさんアメリカ軍人(1歳の時朝鮮戦争で戦死)
- 母親:百合子さんダンサー大阪出身の日本人ハーフ(1975年享年50歳で他界)
- 本人
本土から山陽新幹線に乗って、関門トンネルを
抜けると九州の玄関口は小倉です。
こくら♪こくら♪とホームのスピーカーから
アナウンスが流聞こえると、ここが九州の
玄関口かと思うような、ホームです。
ホームに立ち西は博多に続く線路、
北に顔を向けると工場と工場の間から
潮風に見えて、入江には漁船やボートが
ロープに繋がれているのが見れます。
東は乗ってきた新幹線の山口県が
対岸に見えます。
南に向くと小倉の街を飲み込むような
三岳山が見えます。
小倉駅は鹿児島本線(福岡・鳥栖・熊本・鹿児島)の
西回りと日豊線(大分・宮崎・鹿児島)東周りの
鉄道が走っている拠点でもあります。
どちらの列車に乗っても海が見えるのは
九州だけでしょうかね。
小倉の街は、山本リンダさんにどう映ったか
わたしの眼で、当時を振り返ってみます。
幼い頃の小倉の町は!
4歳という幼い頃の目線は、母親の腰あたり
なんでも大きく見えたのかも知れません。
小倉の中心部に小倉城が有ります。
お堀を取り囲む水は柴川の水と
海水の汽水域であり、魚はボラが泳いでいます。
小倉駅周辺の昔は、ラーメン店、おでん店
海鮮料理、居酒屋等の屋台が所狭しと
並んでいたのです。
小倉駅を起点に市電が走っていた時代です。
今は市電に変わるモノレールが企救丘駅まで
JR九州には志井公園駅があります。
駅近くの公園と言えば勝山公園で山本リンダさんは
遊んでいたのかも知れません。
小倉駅前の商店街は南に300mほどの道に
勝沼通りを歩いているとデパートの井筒屋小倉店が
眼に入ります。当時としては洒落た雰囲気の
デパートで、市民が出かけるお店も有ったみたいです。
商店街には、小倉名物のいわしのぬか漬けは「じんだ漬け」と
と呼ばれて一般の方達が日常食べているそうです。
わたしも、魚町銀天街のお店で買って帰りました。
ぬか漬けは味噌漬けと変わりませんでした。
美味しく頂きました。
それに、ラーメン店も多く点在し、
小倉は戸畑、八幡、若松で働いている
港の積み荷の運び屋、筑豊の石炭の
積み出し港でもあったのです。
そんな街ですから、小倉の町は活気ある
街だったのです。
その町から、山本リンダさんは
雰囲気の違う、横浜の港町へと
移動していったのです。
小倉からは新幹線が無いし時代ですから
寝台列車に揺られて14時間の長旅で
やっと横浜に到着です。
今は小倉駅から新横浜経由横浜4時間42分で着きます。
小倉、戸畑港、若松港にはで鉱山で働いていた人たちが、疲れを
引っ越してきたときは5歳だったと言いますから
小倉での生活は、記憶に残っているでしょう。
小倉は山の近くに有ったのですが
横浜は海に近く、小高い建物が無かった時代です。
とにかく、家庭は裕福ではなかった為に
母親一人で蒲団を縫う内職や魚市場で
家計を支えていました。
母の言葉が歌に!
山本リンダさんは幼い頃から歌が好きで
天気の良い日は夜空の星を見ながら
二時間は歌っていたそうです。
母からは「あなたは今は醜いアヒルの子だけど、
最後には白鳥になるの」と言って、励まされ
よく母がレコードを買ってくれたてレコードに
合わせて歌って踊っていたそうです。
母親が疲れた表情で帰って来ているのを
まじかで見ていた山本リンダさんは
母親に少しでも楽になってもらいたいと
小学5年生11歳の時にモデルのオーディションに
応募して、雑誌「装苑」で人気モデルになって
活躍し始めるのです。
小学生時代はハーフであることで学校でいじめられ
また、近所の大人たちからも白い目眼視されて
みじめな思いを子供の頃されていたのです。
そんな山本リンダさんを母は優しく褒めて
心を薙ぐませては、母の手料理「醬油味のお好み焼き」を
作ってくれていたそうです。母が育った大阪の味です。
そして、1966年高校1年生の15歳時に
ミノルフォンレコード(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)より
遠藤実作詞・作曲の「こまっちゃうナ」のでシングルレコードを
発売しました。大ヒットとなり白鳥になったように見えましたが
その後、低迷してヒットに恵まれずにいました。
母を信じて、その時も心の支えとなったのが母親の言葉だったそうです。
その後「どうにもとまらない」が大ヒットとなりました。
母親は1976年に50歳という若さで浴室での事故で
亡くなりました。
その後も母親の愛の言葉が山本リンダさんの心の中に生き続け
歌手としての活動を支えてくれている事が、
続ける事としているのです。
山本リンダの生い立ち!幼い頃の小倉の町は!母の言葉が歌に!のまとめ
アメリカの軍事と日本人ハーフとの間に
山本リンダさんは九州北部の港町
小倉で生まれました。
父の顔も知らずに、朝鮮戦争で戦死し
母親はダンサーとして仕事場に
幼い子供を連れて育てていたのです。
しかし、小倉と言う街からダンサー以外の仕事を
探しに横浜へ上京することを決意したのだと思います。
そして、横浜でもダンサーとして
仕事を探したと思われますが、中々見つからなかったのだと思います。
そこで、内職や魚市場で仕事を続けて子供を
育てていったのです。
母親は「今は醜いアヒルの子だけど最後には白鳥になるのよ」と
母の言葉を信じて、幼い頃に言われた言葉を信じて
今、高齢者になっても、それを信じて歌い続けて
わたしに歌を聴かせてください。
これからも健康に気を付けて健康食を取りながら
管理してください。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。