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こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事はデビューから52年目の
元アリスのメンバー歌手の堀内孝雄さんが
一つ年上の先輩谷村新司さんを亡くした事に
肩を落としている。
アリス時代、3人で頑張ってきた歌を
もう一度、復活させようとしていた矢先の出来事でした。
演歌歌手としても歌い続けている
姿を見ても変わらない人気の堀内孝雄さん。
高齢者以上の方は懐かしいと思うでしょう。
堀内孝雄さんも高齢者で有りながら
歌い続けられる秘訣は幼い頃に
遊んでいた場所がどんな所だったのか
出身地が気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
堀内孝雄の生い立ち!
終戦後4年後に大阪阿倍野区の大衆食堂「大和屋」の
三人兄弟の末っ子として大阪の産湯をあびて
生まれました。
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この頃の大阪は、戦後まもなく、商店街と言うよりは
復興し始めた年で、店というよりは自宅を改造した
お店が長屋に並んで、文化長屋とし大阪で
発展していった街づくりが行われていました。
隣同士が並んでお店を開き、互いの繁盛を
あいさつ代わりに「もうかりまっか!」
などと声を掛け合って商売繁盛を
願っていたと思われます。
寺西家阿部野長屋(てらにしけあべのながや)が
懐かしい雰囲気のお店が体感できます。
幼い堀内孝雄さんは大衆食堂に
設置されていたラジオから流れて来る
歌謡曲や演歌・浪曲が耳に聞こえてきたのでした。
堀内孝雄のプロフィール
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- 本名:堀内孝雄(ほりうち たかお)
- 愛称:べーちゃん
- 生年月日:1949年10月27日
- 出身地:大阪府大阪市阿倍野区
- 身長:170cm
- 体重:63.5kg(標準体重)
- 血液型:O型
- 星座:さそり座
- 学歴:阿倍野区には12校の小学校が有ります。
阿倍野区には5校の中学校が有ります。
桃山学院高等学校
京都産業大学(中退) - 趣味・特技:ゴルフ
- 職業:ギタリスト・歌手・作曲家
- ジャンル:J-POP・(ニューミュージック)・演歌・歌謡曲(歌謡フォーク)(ニューアダルトミュージック)
- 担当楽器:ギター・ボーカル
- 活動時期:1971年-
- レーベル:東芝EMI(1972年-1979年)
ポリスター(1980年-1995年)
Y.Jサウンズ(1995年-1997年)
zetima(1998年-2004年)
Rice Music(2005年-) - 事務所:アップフロントクリエイト
実家家族
- 父親:情報は見つかりませんでした。78歳で他界
- 母親:情報は見つかりませんでした。78歳で他界
- 長女:情報は見つかりませんでした。
- 長男:情報は見つかりませんでした
- 次男:本人
家族
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- 本人
- 妻:由美子さん1972年に結婚(孝雄22歳の時)
- 長男:孝洋(堀内の所属事務所の経理担当)孫(孝樹)
- 次男:孝太。ロックミュージシャン
- 三男:孝平。ロックミュージシャン
幼い頃は大衆食堂で育ち!
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堀内孝雄さんの実家は大衆食堂だったと
公表されていますが、当時の食事のメニューには
どんなものが有ったか、メニューには
小鉢(ちくわ・こんにゃく・大根)クジラのステーキ
当時としては、クジラ肉が流行していた。
うどん定食、魚定食(魚は近海もの)、卵焼き定食
お好み焼き定食、焼きめし、親子丼、他人丼
肉うどん、焼きそば等品数はそんなに多くは
無かったと思います。
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孝雄少年時代は肉と言えばクジラ肉が
出回っていたと思います。
特にクジラの肉のステーキは甘い醤油と
生姜で臭い消しをして、一口サイズの
大きさの物の物や8cm程の厚みが2cm程で
まるで牛肉のステーキの感じがしたのでは
ないでしょうか。
幼い頃は色々な冒険をして、時には
神社の賽銭箱からお金を盗んだことで
未成年なのにお巡りさんから手錠を
かけられて、両親からはひどくおこった事もあった。
阿部野の町を走るバスや自動車の往来が多い中
バスを運転する運転手さんになりたいと
幼い孝雄少年は思っていたのです。
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学校から帰って兄たちの中に混じって
食堂の手伝いをしながら、ラジオを聴き
時には大衆食堂には近所にある映画館から
上映される映画のポスターを貼ってもら為に
無料チケットを家族分のほかにおまけで貰っていた。
当時は娯楽と言えば、映画、パチンコ、と言った
物が主流でした。
大衆食堂に来て、食事「つけお金がない時」をして
給料日に支払っていた。
今で言う後払い精算ですね。
お客の中には給料を使い込んで代金の代わりに
お客が持っていたステレオを置いて行ったそうです。
ラジオから歌を覚えた!
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そのステレオをお店に置いて、ラジオから流れる
音楽を聴き、当時の音楽と言えば浪曲から演歌まで
流て、特に耳に残る「三橋美智也」の愛終列車が
高音質で歌ってるのが耳に残り
子供の頃は変声前の子だったらすんなり歌える
曲だったと思います。
わたしは春日八郎の「お富さん」が大好きで子供の頃
歌ってました。うまいねと言われたこともあったかな!
ところで、孝雄少年は食堂の息子として
苦手な物が有ったみたいです、
それは漬物(紅ショウガ以外すべてダメ)
食堂では必ずと言っていいほど、
小皿に漬物はついてくるのですが
梅干し等を幼い頃につまみ食いして
いたから、嫌いになったのでしょう。
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食堂を経営していたのは祖父母が営んで
父と母が引き継いだのです。
食事堂の仕事には厳しかった祖母は、
3人姉兄の末っ子の孝雄少年を可愛がって
孝雄少年は祖母に歌を歌って聞かせていた
祖母は孝雄少年に歌が上手いし声がきれい
歌手になれたらいいねと話したそうです。
その言葉が歌手への道を開いてくれたのです。
そうして、中学時代の頃流行したのは
英国で生まれたビートルズがラジオから流れ
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音にしびれた時もあったのです。
お兄さんの影響で洋楽をよく聞くようになったのです。
高校生に入学するなり軽音楽部で部長を務めた。
バンドを結成してボーカル担当を引き受けて、
歌っていたのです。
学生時代から自分の髪は自分でカットして
将来は理容師になりたいと思っていた時期もあったそうです。
高校生の時にタバコがバレて、
父親が学校から呼び出しを受けて
先生にタバコの本数を何本に減らしますかと
父親は問いかけたそうです。
先生は当然、全部ですと答えたはずです。
大学に進学すると当時はフォークソングが流行し
堀内孝雄もフォークに挑戦、アマチュアバンド
フーリッシュ・ブラザー・フットを結成します。
コンテストに数回出ています。
最初にギターを買ってくれたのは
5歳年上の姉が毎日練習するようにと
思って買って独学で地道に勉強した。
1970年21歳の時にアリスのメンバーに
誘われロック・キャンディーズのリーダーだった
谷村新司から、同じ音楽サークルで
実力を認めていた堀内孝雄をメンバーに
誘ったのです。
この時、京都産業大学を中退しました。
そして1971年22歳の時に
大阪帝国ホテルで、アリスを結成、
この時のメンバーは堀内孝雄、谷村新司の二人。
矢沢透の加入を前提にしていた。
1972年22歳の時にアリス3人が勢ぞろいして
正式に結成されたのです。
「走っておいで恋人よ」でデビューしました。
1972年-1975年の三年間22歳から25歳まで
レコードを発売しましたが、ほとんど売れなかった。
1975年25歳の時にウッディ・ウ-の
「今はもうだれも」をカバーして初のオリコンシングルチャート
20位内を達成したのです。
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地道なツアーを続けたおかげで、行ってきたことが
ファンの方々が見守ってくれた証しです。
堀内孝雄の生い立ち!幼い頃は大衆食堂で育ち!ラジオから歌を覚えた!のまとめ
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終戦後に生まれた堀内孝雄さん
文化長屋が続く家々の中で
育って行く少年は、いろんな事に
興味を示し、悪いと思った神社の
お賽銭盗みがバレて、小さな手を出して
手錠をかけられた。
両親は食堂が忙しい兄弟で末っ子として
遊んでは、良い事悪い事の区別を教えながら
子供同士で、末っ子の堀内孝雄は学んでいたのです。
そんな、末っ子は祖母に可愛がられ
ラジオから流れて来る、甲高い声の三橋美智也の
歌声をマネして歌っている姿を見て
孫の孝雄の歌がうまい事に気付き、
歌手になったらと応援してくれた祖母
その言葉を、志して歌手へと進んだのです。
その少年も今は高齢者です。
無理をしないで、歌い手としての喉の健康は
大切です。
高齢者になったら健康に注意して
ファンの皆様に届ける歌は、健康な声です。
これからも、わたしに歌を聴かせてください。
幼い頃の思い出を蘇らせるストーリは
これからも続けます。
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今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。