こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事はデビューから63年目の
歌手の尾藤イサオさんのヘアースタイルは
ロカビリー歌手として人気が有りました。
また、アニメソング「あしたのジョー」の
主題曲を歌って人気者になりました。
高齢者以上の方は懐かしいと思うでしょう。
尾藤イサオさんも高齢者で有りながら
歌い続けられる秘訣は幼い頃
遊んでいた場所がどんな所だったのか
出身地が気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
尾藤イサオの生い立ち!
尾藤イサオさんの生まれた場所は東京都台東区
東北・上越・北の玄関口と知られる
上野駅が有ります。
東京の東の玄関口で、他県の方が朝一様に
収穫した野菜・肉・魚をリュックにしょって
一番列車で、上野駅・御徒町・秋葉原・浅草で
収穫した新鮮な品物を売りさばいていた頃
尾藤イサオ少年は浅草、蔵前、御徒町、上野公園の
テリトリーの場所で遊んでいたと思われます。
終戦前2年の時に尾藤イサオさんは生まれました。
後期高齢者になっても若々しく変わらない歌声の
秘訣は健康を続ける事だと話しています。
尾藤イサオのプロフィール
- 本名:尾藤 功男(びとう いさお)
- 生年月日:1943年11月22日
- 出身地:東京都台東区
- 身長:168cm
- 体重:55kg
- 血液型:A型
- 星座:射手座
- 学歴:台東区立小島小学校・台東区立坂本小学校(閉業)・蔵前小学校卒
台東区立駒形中学校
都立高校からアメリカに渡り音楽の勉強 - 趣味:大相撲観戦・空手
- 特技:手品・タップダンス・曲芸
- ジャンル:ロカビリー・ポピュラー音楽
- 職業: 歌手・俳優
- 活動時期:1961年-
- レーベル:ユニバーサル
- 事務所:ケーワン・プロモーション
実家家族
- 父親:松柳亭鶴枝(3代目寄席芸人)百面相をやっていた。
- 母親:三味線奏者
- 姉:10歳年上
- 長男兄:10歳年上
- 次男兄:5歳年上
- 三男兄:3歳年上
- 末っ子:本人
- 尾藤イサオさんの実家は7人家族でした。
まだ戦争の中で生まれた尾藤イサオさんは
空襲警報のサイレンを経験しているはずです。
1945年3月10日に下町を中心に
爆撃されて、大勢の一般都民が亡くなっています。
そんな中でも、尾藤イサオさんの家族は
必死に上野方面に避難したと思われます。
そんな中、終戦になって1946年に父親が他界しています。
幼い頃から曲芸師!
尾藤家の兄弟が父親の跡を継ぎを継いだのが長男でした。
実家は裕福でなかった事で、小学生の給食費が
払えなかったこともあった。
尾藤イサオさんは、小学校を3回転校しています。
住まいを転々として、10歳の時に曲芸師・鑑味小鉄の
内弟子となり鑑味鉄太郎を名乗ります。
幼少時代は太神楽の曲芸師になって活躍していました。
最終的には蔵前小学校を卒業しています。
卒業するころは住居も固定された場所に
住むようになって、隅田川で釣りをして
釣った魚や上野の不忍池に生息する鳥を
捕まえては食べていた事もあったそうです。
芸人でもあったが貧しかったので町内の揃いの
浴衣が買えなくてお祭りに参加できずに
隣町の御輿を担がせてもらっていた。
小学生時代は上野公園から浅草、線路沿いの
御徒町の闇市場へ出かけて社会勉強を
子供の頃から足で情報を身に着けていたと思われます。
母親は父親が死んだあと酒に溺れて肝臓を患って
他界してしまい兄弟4人での生活が
待っていました。
ロカビリーはアメリカから!
尾藤イサオさんは内弟子(鏡味小鉄)に住み込みで修行した。
その訳は、兄弟の次男兄に曲芸師になれと言われたが
断った事で、尾藤イサオさんが「一人分の家計が浮くなら」と言って
志願して弟子入りしたのです。
1953年10歳5年生の時に弟子入りして兄弟子に
可愛がってもらい内弟子生活は全然辛くなかったそうです。
曲芸師としてアメリカ各地を1年間巡業。
高校一年生1960年16歳の時、アメリカの人気テレビ番組に
紹介されてアメリカ巡業中に本場のステージを
見てエンターテイメントを志すのです。
曲芸師として年期明けとともに曲芸を引退しました。
曲芸をやめて、アメリカで見たロカビリーを日本で
流行らせることを思った、尾藤イサオさんは
姉の家に居候してアルバイトしながらロカビリーの歌手を
目指して歌とギターの練習を重ねて
兄弟子と一緒にロカビリー曲芸を始めた。
1961年18歳になりました。
1962年19歳の時に錦糸町のジャズ喫茶「エルザルバトル」で
歌手デビューしました。
1963年第20回ウエスタンカーニバルでプレスリー賞を
受賞し「日本のプレスリー」と呼ばれたのです。
アメリカで有名なエルビスプレスリー歌手が
当時は流行の先端を言っていたのです。
当時はロカビリー・踊りはツイストが日本にも
流行し始めた頃でした。
尾藤イサオさん後期高齢者!曲芸師であり!ロカビリーとあしたのジョー!のまとめ
戦争時代に生まれた尾藤イサオさん
関東空襲で浅草・台東区・上野・蔵前は
空襲警報の鳴り響く日々だったようです。
父親の仕事が寄席芸人で百面相をやり
母親は三味線奏者で芸人一家の
末っ子として生まれ、父親の死を知ったのは
3歳では記憶にないと思います。
実家は裕福でなかったために、芸人はカエルの子
長男も芸人、次男は芸人になりたくないと
末っ子の尾藤イサオさんが曲芸師に
10歳で入門します。
これも家族兄弟の家計を助けるために
一人分でも少なくするための曲芸師になり
アメリカで日本では見たことのない
未知の世界からロカビリーを志として
18歳になった時に歌手を目指す事を決めました。
尾藤イサオさんは英語の教育はどうだったのでしょう?
若い頃からアメリカで英語を生きた声を聴き
当時の費用は1ドル360円時代です。
曲芸師にとっては、高額な費用がかかっていたと思います。
尾藤イサオさんはチャンスだと思って英語を
地元の人と会話して、英語能力を磨いていったと思います。
既に後期高齢者になった尾藤イサオさんは
先日のテレビに出演しても後期高齢者とは
思えない若さのオーラが見えていました。
わたしも、毎日雨の日以外は散歩は欠かせません。
今も積極的に歩く事を意識していると
話していました。
やはり、身体の先生は自分自身です。
自分の私生活を見つめながら、これからも
歌い続けて欲しいものです。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。