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こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事はデビューから61年目の
歌手の尾藤イサオさんのヘアースタイルは
ロカビリー歌手として人気が有りました。
また、アニメソング「あしたのジョー」の
主題曲を歌って人気者になりました。
高齢者以上の方は懐かしいと思うでしょう。
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尾藤イサオさんも高齢者で有りながら
歌い続けられる秘訣は幼い頃
遊んでいた場所がどんな所だったのか
出身地が気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
尾藤イサオの生い立ち!
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尾藤イサオさんの生まれた場所は東京都台東区
東北・上越・北の玄関口と知られる
上野駅が有ります。
東京の東の玄関口で、他県の方が朝一様に
収穫した野菜・肉・魚をリュックにしょって
一番列車で、上野駅・御徒町・秋葉原・浅草で
収穫した新鮮な品物を売りさばいていた頃
尾藤イサオ少年は浅草、蔵前、御徒町、上野公園の
テリトリーの場所で遊んでいたと思われます。
終戦前2年の時に尾藤イサオさんは生まれました。
後期高齢者になっても若々しく変わらない歌声の
秘訣は健康を続ける事だと話しています。
尾藤イサオのプロフィール
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- 本名:尾藤 功男(びとう いさお)
- 生年月日:1943年11月22日
- 出身地:東京都台東区
- 身長:168cm
- 体重:55kg
- 血液型:A型
- 星座:射手座
- 学歴:台東区立小島小学校・台東区立坂本小学校(閉業)・蔵前小学校卒
台東区立駒形中学校
都立高校からアメリカに渡り音楽の勉強 - 趣味:大相撲観戦・空手
- 特技:手品・タップダンス・曲芸
- ジャンル:ロカビリー・ポピュラー音楽
- 職業: 歌手・俳優
- 活動時期:1961年-
- レーベル:ユニバーサル
- 事務所:ケーワン・プロモーション
実家家族
- 父親:松柳亭鶴枝(3代目寄席芸人)百面相をやっていた。
- 母親:三味線奏者
- 姉:10歳年上
- 長男兄:10歳年上
- 次男兄:5歳年上
- 三男兄:3歳年上
- 末っ子:本人
- 尾藤イサオさんの実家は7人家族でした。
まだ戦争の中で生まれた尾藤イサオさんは
空襲警報のサイレンを経験しているはずです。
1945年3月10日に下町を中心に
爆撃されて、大勢の一般都民が亡くなっています。
そんな中でも、尾藤イサオさんの家族は
必死に上野方面に避難したと思われます。
そんな中、終戦になって1946年に父親が他界しています。
幼い頃から曲芸師!
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尾藤家の兄弟が父親の跡を継ぎを継いだのが長男でした。
実家は裕福でなかった事で、小学生の給食費が
払えなかったこともあった。
尾藤イサオさんは、小学校を3回転校しています。
住まいを転々として、10歳の時に曲芸師・鑑味小鉄の
内弟子となり鑑味鉄太郎を名乗ります。
幼少時代は太神楽の曲芸師になって活躍していました。
最終的には蔵前小学校を卒業しています。
卒業するころは住居も固定された場所に
住むようになって、隅田川で釣りをして
釣った魚や上野の不忍池に生息する鳥を
捕まえては食べていた事もあったそうです。
芸人でもあったが貧しかったので町内の揃いの
浴衣が買えなくてお祭りに参加できずに
隣町の御輿を担がせてもらっていた。
小学生時代は上野公園から浅草、線路沿いの
御徒町の闇市場へ出かけて社会勉強を
子供の頃から足で情報を身に着けていたと思われます。
母親は父親が死んだあと酒に溺れて肝臓を患って
他界してしまい兄弟4人での生活が
待っていました。
ロカビリーはアメリカから!
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尾藤イサオさんは内弟子(鏡味小鉄)に住み込みで修行した。
その訳は、兄弟の次男兄に曲芸師になれと言われたが
断った事で、尾藤イサオさんが「一人分の家計が浮くなら」と言って
志願して弟子入りしたのです。
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1953年10歳5年生の時に弟子入りして兄弟子に
可愛がってもらい内弟子生活は全然辛くなかったそうです。
曲芸師としてアメリカ各地を1年間巡業。
高校一年生1960年16歳の時、アメリカの人気テレビ番組に
紹介されてアメリカ巡業中に本場のステージを
見てエンターテイメントを志すのです。
曲芸師として年期明けとともに曲芸を引退しました。
曲芸をやめて、アメリカで見たロカビリーを日本で
流行らせることを思った、尾藤イサオさんは
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姉の家に居候してアルバイトしながらロカビリーの歌手を
目指して歌とギターの練習を重ねて
兄弟子と一緒にロカビリー曲芸を始めた。
1961年18歳になりました。
1962年19歳の時に錦糸町のジャズ喫茶「エルザルバトル」で
歌手デビューしました。
1963年第20回ウエスタンカーニバルでプレスリー賞を
受賞し「日本のプレスリー」と呼ばれたのです。
アメリカで有名なエルビスプレスリー歌手が
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当時は流行の先端を言っていたのです。
当時はロカビリー・踊りはツイストが日本にも
流行し始めた頃でした。
尾藤イサオの生い立ち!幼い頃から曲芸師!ロカビリーはアメリカから!のまとめ
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戦争時代に生まれた尾藤イサオさん
関東空襲で浅草・台東区・上野・蔵前は
空襲警報の鳴り響く日々だったようです。
父親の仕事が寄席芸人で百面相をやり
母親は三味線奏者で芸人一家の
末っ子として生まれ、父親の死を知ったのは
3歳では記憶にないと思います。
実家は裕福でなかったために、芸人はカエルの子
長男も芸人、次男は芸人になりたくないと
末っ子の尾藤イサオさんが曲芸師に
10歳で入門します。
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これも家族兄弟の家計を助けるために
一人分でも少なくするための曲芸師になり
アメリカで日本では見たことのない
未知の世界からロカビリーを志として
18歳になった時に歌手を目指す事を決めました。
尾藤イサオさんは英語の教育はどうだったのでしょう?
若い頃からアメリカで英語を生きた声を聴き
当時の費用は1ドル360円時代です。
曲芸師にとっては、高額な費用がかかっていたと思います。
尾藤イサオさんはチャンスだと思って英語を
地元の人と会話して、英語能力を磨いていったと思います。
既に後期高齢者になった尾藤イサオさんは
先日のテレビに出演しても後期高齢者とは
思えない若さのオーラが見えていました。
わたしも、毎日雨の日以外は散歩は欠かせません。
今も積極的に歩く事を意識していると
話していました。
やはり、身体の先生は自分自身です。
自分の私生活を見つめながら、これからも
歌い続けて欲しいものです。
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今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。