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八代亜紀の幼い日の生い立ち!幼い頃から色々な歌が好きで志た!ご冥福をお祈りいたします。

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こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は日本の演歌界のスーパースター

八代亜紀さんがちょっと病気になって

気になったので

ジャックして「八代レコード店(展)」を

設置してお客様へレコードの紹介を

開催された、コロナの中でコンサートも

ままならない時代の中で頑張っている姿を最近は

衛星放送で演歌歌手の方々の中で歌っている

亜紀節を聞き、生まれ育った出身地が

気になったので記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

八代亜紀という、地名から取った女性歌手としては

珍しいと思いました。

九州の中央部の県、熊本県南部に位置する

都市でもある八代市(やつしろし)

熊本県で第2位の都市として栄えています。

推計人口は121,052人(2022年3月1日)です。

八代の玄関口は、八代駅(やつしろえき)でした。
この駅に着くと、駅の東側に製紙工場が有り

その煙突から白い煙を空高く吐き出しています。

パルプの腐った匂いが鼻を衝き、鼻をハンカチで

ふさがないと息ができないくらい、臭い街と

という印象です。

八代亜紀さんはもの心ついた頃には、

風向きによって、パルプの臭さを覚えていると思います。

いまは、匂いも減ってきていますが、匂いは有ります。

空気は奇麗ですし、果実も有名どころで

冬になると、オレンジ色が店先に並んでいます。

そんな、町で幼い頃を過ごした場所を

尋ねてみたいと思います。

八代亜紀のプロフィール

  • 本名:増田明代(ますだ あきよ)
  • 出生名:橋本 明代(はしもと あきよ)
  • 生年月日:1950年8月29日
  • 出身地:熊本県八代郡金剛村(現・八代市)
  • 身長:162cm
  • 体重:57.7kg(標準体重)
  • 血液型:B型
  • 星座:乙女座
  • 学歴:八代市立植柳小学校から八代市立金剛小学校卒
    八代市立第六中学校
  • 趣味:読書・漫画・スポーツ観戦・陶芸・ゴルフ・ショッピング
  • 特技:絵画
  • ジャンル:演歌・歌謡曲・ジャズ
  • 職業:歌手・女優・画家
  • 担当楽器:歌
  • レーベル:テイチクレコード(1971年-1981年)
    センチュリーレコード(1982年-1985年)
    日本コロンビア(1986年-)
    ユニバーサルミュージック(2017年-)
  • 事務所:ミリオン企画

実家家族

  • 父親:会社員で後に自営業・陶芸・歌が上手かった。63歳で他界。
  • 母親:93歳・沖縄出身(お母さんの情報は見つかりませんでした)

 

八代亜紀は八代中心部から球磨川を挟んだ

三角州の町で幼い頃を過ごしていたと思います。

北東風が吹くと、製紙工場からパルプの腐った

嫌なにおいが鼻を衝きます。

鼻をつまんで遊んでいたと思います。

球磨川は下流で、不知火海に注ぐ川で

日本三大急流の一つとして有名な川ですが

一昨年の水害で、球磨川は濁流となって

川沿いの人や、橋梁をさらって海へと

攫って行きました。

一面、穏やかな球磨川も牙をむいた

濁流に変化する下流の町も、少しは水が影響が

あったと思います。

幼い日の生い立ち!

八代亜紀は父親が歌う浪曲を子守歌とし聴かせ

浪曲はどすの利いた声で歌うので、

歌の内容は分らなかったが、そのままマネをして

全ての歌を歌っていたそうです。

また、父親からは絵を教えてもらい、絵を描くようになった。

幼い頃から、女の子としてはハスキーな声で

歌っていて、自身はコンプレックスをひしひしと感じて

いたとみます。

この町は田園地帯で海岸が有り港町としても

栄えてる町です。

田園地帯にはいぐさの生産、商店街、歓楽街や

日奈久温泉でくつろぐ人々が汗を流しに

温泉につかって楽しんでいます。

子供の頃は、虚弱体質で栄養失調気味だったと言うが

町は港町で魚介類は豊富に取れて、食べられていたと思います。

八代亜紀は5歳の頃から料理を仕込まれていたそうです。

小学生時代、遠足や修学旅行へは、いつも両親と旅行していたので

家族と離れ離れが嫌で、担任の先生も困っていたと思われます。

街中で流れて来る歌謡曲の中でも、美空ひばりの歌が

小学生時代は大好きだったみたいです。

幼い頃から色々な歌が好きで志た!

父親が会社を辞めて運送会社を興しました。

1961年小学校6年生の時にジュリー・ロンドンを聞いて

クラブ歌手を志しました。

当時としては、ハイカラな曲をJAZZを父親は

聞いていたんですね。

その音楽を八代亜紀(娘)に聴かせては

歌に親しんで、地元の歌謡コンクールなどに

出演していた。

小学校の頃から、クラブ歌手になる事を意識して志ます。

通っていた小学校と中学校の位置関係は、余り

離れていなかったので、好きなスポーツの一つ

部活はバレーボール部に入部していたみたいです。

1965年に中学校を卒業(15歳)して、地元の

バス会社の九州産交バスに就職しました。

バスガイドとして配属されましたが

思うように仕事ができず数ヶ月で退職しました。

退職後、友人の勧めで八代市内のキャバレー「キャバレーニュー白馬」

オーディションに年齢をごまかして参加して、

見事合格して、店の専属歌手として採用されました。

しかし、バス会社を退職した事を告げないで

キャバレーのステージで歌っていたところを

3日目に父親の友人が店に来客して八代亜紀(娘)が

歌っている所を発見されて両親にばれた。

父親からは「いつからそんな不良になったんだ。出ていけ」

八代弁で「いつからそぎゃん!不良みたか娘になったつかい!

出ていけ!」と勘当されて、上京したのです。

キャバレーで歌ったのは3日間だけに終わってしまった。

八代亜紀は「歌手としての一歩を踏み出した場所、志の原点は

この場所だと大事にしまい込んで東京での再出発を

始めました。

東京では親戚の家に下宿させてもらい

音楽学院に通い、学費と生活費は新宿の歌える喫茶で

バイトを始めました。16歳の頃です。

1968年18歳の時に銀座のクラブで歌うようになり

八代亜紀の歌はハスキーで哀愁ある歌声は

聞いている人たちを引き付ける独特のある

歌が聴かれ、ホステスからは「レコード」を

出した方が良いよと後押ししてくれたのです。

その後、レコードデビューが叶い3年後の

1971年に歌手デビュー、曲は「愛は死んでも」の

シングルレコードを大切に抱いて眠ったそうです。

同曲はヒットしなかったが、これまで応援してくれていた

人達に気持ちを伝えたいと思って、何とか売りたいと思って

トランク一杯シングルレコードを詰め込んで

地方のキャバレー周りを毎日の様に歩いたそうです。

八代亜紀の幼い日の生い立ち!幼い頃から色々な歌が好きで志た!のまとめ

 

熊本県八代市から、歌が好きだったが

生まれ持ったハスキー声は、自分にとって

最初は嫌だった、しかし、父親が洋楽の素晴らしさを

教えてくれた歌手ジュリー・ロンドンの歌を聴き

八代亜紀キャバレーでクラブ歌手になる志を

決めて、15歳の時に八代市内のキャバレー

歌い、夢を形にする為に、歌い続けます。

高齢者になった八代亜紀は同世代に元気を

与えて欲しいものです。

わたしも八代亜紀のハスキーな歌声を

哀愁あるものとして、元気をもらいます。

これからも健康に気を付けて、喉に

優しく、無理をしないで、歌い続けて欲しいものです。

しかし、田舎へ帰るのは、いつの事でしょう。

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