こんにちは、
自由まなぶです。
「わくわくウキウキブログ」
にお越しいただきありがとうございます。
今回の記事はお正月番組の歌謡番組にも
ほとんど出演しなくなった歌手の森進一さん
子供と一緒にビールのCMが気になって
記事にまとめていきます。
森進一のプロフィール
- 本名:森内 一寛(もりうち かずひろ)
- 生年月日:1947年11月18日
- 年齢:74歳
- 出身地:山梨県甲府市生まれ鹿児島県育ち
- 身長:167cm
- 体重:49kg(平均体重は65.1kg)やせ過ぎ
- 血液型:O型
- 星座:さそり座
- 学歴:鹿児島市立長田中学校
- 趣味:釣り・ゴルフ
- 職業:歌手
- ジャンル:演歌・歌謡曲めj-pop
- 活動時期:1966年-
- レーベル:ビクターエンターテイメント
- 事務所:森音楽事務所
森進一の生い立ちは
森内尚子さんと、母の幼馴染の兄で大日本帝国海軍軍人の
父の白砂三郎の長男として生まれた。
山梨県甲府から森内一家は静岡県沼津市に移転後
弟妹2人が生まれ、一寛(後に森進一)10歳の時に両親は離婚
父の浮気・ギャンブルが原因で離婚し母子家庭になっています。
母と妹と一緒に母の幼馴染だった母の父の妹を頼って
下関に引っ越しました。
一寛一家は母子家庭となり、一寛は小学生時代新聞配達をして
一家の家計を支える少年でした。
その後、小学校を山口県の下関で育った一寛は無事に小学校を
卒業します。
小学校は既に義務教育でしたから、母としては行かせないわけには
行かなかったのだと思います。
山口県の下関は九州は目の前です。
母は子どもたちを故郷の鹿児島に連れて帰ったのです。
鹿児島市内に落ち着き中学校は直ぐそばに、鹿児島駅が有り
大分から宮崎経由して鹿児島に入る日豊本線の終着駅でした。
私の記憶が正しければ、鹿児島駅近くには魚市場が有って
桜島フェリー乗り場が有り、鹿児島ふ頭から桜島への航路では
頻繁に旅客船が往来していました。
そんな環境の中で中学校は一寛にとっては、桜島を
どう眺めていたのでしょう。
近くには西郷隆盛が終焉した場所が有ります。
西南戦争(政府軍の鹿児島人)と薩摩の人との
互いに県民同士が、戦わなくてはならなかったのか
鹿児島に旅行されたら、最初に目につくのは銅像です。
今では観光名所となっていますが150年前に
起きた国内最後の戦いが鹿児島で起こりました。
一寛は長田中学校で学んだことは、桜島は毎日噴火して
鹿児島の人々を脅かしている。
魚市場が近かったので魚介類を沢山食べていた。
錦江湾で釣りを楽しむこともあったと思います。
沢山の魚たちが泳いでいて、砂地の場所には貝類も
とにかく鹿児島には、特産物がさつまいも、桜島大根、
魚はきびなご、うなぎ、はまち、ぶり、
肉は黒牛、黒豚、黒鶏といった食材には
困ることは無かったと思います。
その一寛も中学校を卒業したら、九州の人は男女とも
岡山の紡績工場、大阪は手に職を持つ仕事
当時は集団就職を駅まで送りにホームまで行って
中学校のブラスバンド部が校歌、民謡等を
旅立つ生徒たちへ贈る音楽を列車がホームを離れ
最後の客車が見えなくなるまで、演奏を続けていました。
来年は後輩たちが金の卵として旅立って行くのでした。
一寛は若い労働者として、最初に勤めたのは「寿司店」に
1ヵ月で退職したそうです。
まだ、見習いですから給料も見習い期間中は、全額もらえるものでは
なかったのだと思います。
一寛は家族のことを思って少しでも賃金が多くもらえる職種を
見つけて、仕事を転々と数えてみると17回も替えていたそうです。
17歳の時に大阪を離れ東京に母の従姉妹を尋ねて移住します。
一寛は、従姉妹の紹介で、仕事と歌を両立しながらチャンスを
待っていました。
1955年(昭和40年)フジテレビ(旧住吉町)本社は
地下鉄都営新宿線曙橋駅が最寄りの駅でした。
素人参加歌謡番組「リズム歌合戦」に出場し優秀します
一寛の才能に目をつけたのがチャーリー石黒さんだったのです。
当時は、全てが生演奏で、バックグラウンドの演奏には18人もの楽器を持った
担当者が、チャーリー石黒の指揮の下で、生演奏を披露していました。
そんなチャーリ石黒さんに認められた、一寛は渡辺プロダクションに所属して
芸名をどうするか?名付け親になったのがハナ肇さん「クレージーキャッツのリーダー」から本名の「森内」と「一寛」から一字ずつ取って、
渡辺晋のシンを進と読み替えて
合成した名前森進一に、昔の芸名は、
意味のある名前にしたんですね。
デビューする前は普通の声だたのですが、
顔も良く、森が実家へ仕送りを必要としていたので
ポップス系からデビューさせる
予定でスクールメイツ(芸能グループ)に入らせた。
結果的に個性が弱く、売れるためには声を潰すし演歌を
歌うしかないとチャーリー石黒は思った。
チャーリー石黒は森と渡辺プロダクションを説得させて
19歳の時に猪俣公章作曲、吉川静夫作詞による
「女のためいき」でデビューを果たします。
いろいろな曲がヒットしてデビュー3年目の21歳、
1968年ヒット曲「花と蝶」で
第19回紅白歌合戦「港町ブルース」に初出場し、
その後紅白には第20回「おふくろさん」でトリ、
第22回「おふくろさん」でもトリを務め、
1974年の第25回「襟裳岬」で自身がオオトリを務めた。
2015年には出場回数50回目を最後に紅白を卒業しました。
その後高血圧 緊急症健康には気を付けて
2016年ごろから体調が優れず、減量が原因で
徐々に顔のしわが目立つようになったみたいです。
2013年頃に、肺がん・高血圧緊急症・うつ病等を
患っていたので、そのことを聞くと
仕方がないのかと思います。
その病気に対して、森進一さんは弟さんが
生前の時に、埼玉県春日部市立病院に
勤務している時、通っていたのではないでしょうか。
弟は2011年2月に亡くなっています。
その弟さんが亡くなってから、森進一さんは
肉親を愛する弟の事を思い、辛くて悲しかったはずです。
森進一さんは血圧緊急症になった、
血圧が異常に高くなって、臓器関係に
障害が生じて悪性高血圧となったのではないでしょうか?
わたしも、40歳代頃から高血圧と診断され、薬を服用しています。
高血圧は遺伝もあるみたいで、投薬は高齢者になっても続けています。
最悪は心臓に大きな負担がかかってしまうケースもあるみたいです。
その後、森進一の病気との戦いは、今も続いています。
後期高齢者に近い森進一さん身体をしっかりケアして
これからも元気で活躍してもらいたいです。
森森進一の家族や生い立ちは!あるがままに生きる高齢者姿になって!のまとめ
山梨県甲府から静岡沼津で一寛は、父の浮気・ギャンブルで
母子家庭になってしまい一家は
母の妹を訪ねて、下関に移住します。
もの心覚える少年です。
母は自分の故郷に子供達と一緒に
鹿児島に戻り市内の中学校を卒業して
今とは違い中学校卒業して高校に進まず、
手に職を持つために集団就職の道を選択して
金の卵として、大阪で寿司屋に就職しますが、
給料が安く、実家に仕送りができず
仕事を転々と17職場を替えながら、もっと稼げる場所へ、
お金を儲けるのではなく、実家への仕送り額を増やすために、
母の従姉妹が東京に居るので、上京して仕事を探して、
テレビの番組に出演して優勝した。
その番組「リズム歌合戦」から森進一は
歌手としてデビューしました。
森進一は、中学校卒業して、弟、妹の事を
大事にして、もちろん母が苦労してきて
一寛を育ててくれたのですから、
その思いは数知れないと思います。
やはり、来年は後期高齢者の仲間入りです。
高齢者と違うのは、健康保険証が75歳以上は
1割負担でしたが来年からは2割負担になります。
ただ、高額所得者には関係ありませんが!
身体に気を付けて活躍してもらいたいです。
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