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長山藍子の生い立ち!幼少時代は戦争経験!帰国後は東京・熱海で過ごした!

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こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は今も若々しく

昭和の名作を支えた美人女優の

長山藍子さんです。

ひょんなことから最近話題に

なっているのが若々しく今も

後期高齢者とは思えない

美人顔の長山藍子です。

はじめてのテレビドラマ「愛する」

出演したのが初めてでした。

その後、ホームドラマが徐々に

人気が出始めた時に「女と味噌汁」で

一気に知名度を上げました。

女優として有名になった長山藍子さんは

映画にも出演して1967年には

はじめて映画「花の宴」に出演し

デビュー作として果たしました。

そして女優として地位を確立した

作品が、皆さんご存じの

「渡る世間は鬼ばかり」です。

テレビ界ではロングセラー約28年間も

続いたホームドラマ作品です。

ドラマの中では岡倉家の5人兄弟の

長女役として野田弥生役として

演じたのです。

当時の年齢と本人の年齢とが

重なり合っていたのかも知れませんね。

そんな、長山藍子さんは

戦争中に生まれた方なんです。

既に後期高齢者なんですが

まだまだ若々しく年齢を

超える若さの秘訣は

それは、若い頃の生い立ちが

長山藍子さんをしっかり

包んでくれていたからですか?

そんな、長山藍子さんが

幼い頃の生い立ちがどんな所で

育ったのかが気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

長山藍子の生い立ち!

日本から遠く離れた中国蒙古聯合

自治政府厚和市(現・フフホト市)

面積としては九州全土を包み込むような

大きさです。

更に、北京からは約400km程

西側に位置しています。

私は中国に入った事が無く

どんな所か、興味が有ります。

北京とは違った都会感がまだ

ないような場所でしょうかね?

地図上からは森林よりは

砂漠が広がる地域です。

父親は同盟通信社の記者

東京タイムズ創立に参加した。

両親はフフホト市が赴任先で

長山藍子さんは中国で

生まれました。

幼児期は新京(現・長春)で

過ごしています。

 

内モンゴル(フフホト市)から

約1,452km離れた場所に

行くには車でやく15時間かかります。

当時は飛行機は有りませんが

飛行機を利用した場合1時間55分で

長春市に到着します。

長山藍子さんは幼い頃育った

場所にきっと訪れてみたいと

後期高齢者になっても思っている。

私は魚の鮭と同じだと思っています。

幼い頃に育っち場所の空気・空の色

懐かしい道路は幾つになっても

替わりません。

鮭は生まれ故郷に水を頼りに

帰ってくるからです。

長山藍子のプロフィール

  • 本名:長山 藍子(ながやま あいこ)
  • 生年月日:1941年6月21日
  • 出身地:蒙古聯合自治政府厚和市(現・フフホト市)
  • 育った場所:静岡県三島市
  • 身長:159cm
  • 体重:50kg
  • 血液型:O型
  • 星座:ふたご座
  • 学歴:東京都私立成蹊小学校卒
       東京都私立成蹊中学校業
       静岡県立三島高等学校卒
  • 趣味:読書・音楽鑑賞・陶磁器・骨董品収集・家庭菜園・山菜取り・写真・旅行
  • 職業:女優
  • 活動期間:1963年-
  • 配偶者:武正忠明(1997年結婚)

実家家族

  • 父:同盟通信の新聞記者
  • 母:中央公論社の雑誌記者
  • 長女:本人
  • 次女:一般の方です。(情報は見つかりませんでした)
  • 長男:一般の方です。(情報は見つかりませんでした。)
  • 幼少時代は戦争経験!

父親は同盟通信社の新聞記者で

母親は雑誌記事の記者を赴任先の
中国内モンゴル。フフホト市で

生まれた、長山藍子さんと両親は

新京(現・長春市)で

過ごしていました。

4歳の時にソ連軍が

ウラジオストクの国境から

約400km離れた場所から

侵攻してきたため

自制と子供達を安全な場所へと

北朝鮮へ疎開する事に。

「通信社疎開家族団」の一員として

母親と弟と一緒に長春を出発した。

長春から北朝鮮ナムポまでの距離は

平壌を通過して約600kmの黄海に

近くの町に疎開しました。

1945年8月14日に到着した

翌日に終戦を迎えました。

終戦を境に状況が一変して

長山さんたち親子は他の家族と一緒に

足止めされました。

仕方なく長山さんたちは、市役所の

建物に避難して1年余り暮らしていました。

市役所の事務所のお兄さんが

朝鮮民謡の「アリラン」を

教えてくれました。

北朝鮮の方達は優しくしてくれたそうです。

アリラン」とは
明るい峠を越えなさい。
諸説ありますが?

長山さんは幼い頃に教えた貰った

「アリラン」を歌うことができる。

ロシアの侵攻がますます激しくなって

中国から北朝鮮へと南に進み

日本人が疎開していた市役所にも

押し入ってきて、夜は子供達は押し入れの中

母親たちは必死に部屋のドアを押さえていなければ

侵入されて射殺されると思い

必死に立てこもったそうです。

食料にも底が付き物乞いすることも多かった。

日本兵の為にお米トラックで届くと

30kgのコメ袋をわざと

角をすこし破ると、コメがこぼれて

こぼれたコメをかき集めて

おにぎりを食べることができたそうです。

お母さんたちがこぼれたお米を

かき集めて作ったおにぎりは

何故か押し入れにズラリと並べられ

子供達から食べなさいと言ってもらったそうです。

その思い出が「つやつやしたお米が白く

一生忘れないもの」となったそうです。

帰国後は東京・熱海で過した!

その後、北朝鮮で帰国が認められた

長山藍子さんは南北朝鮮を

わける38度線を目指して

人の往来が少ない深夜に

真っ暗な農道を息を凝らして

まだ赤ちゃんだった弟は

母の背中に、5歳の

長山藍子さんは母の手を握って

やっとの思いで、港に着き

日本の長崎佐世保に向かう

引き揚げ船に乗船することができた。

船内で一番困った事は、トイレ

トイレと言っても、海に直接流す

場所でしたから、船底から縄梯子を

つたって甲板に上った所に

四角い穴が開いていて、それをトイレとして

使っていた。

子ども達だったら足が竦む場所でした。

船内どは多くの人が体調を崩し

亡くなった人もいました。

友達も亡くなっています。

亡くなった時の処理は

ミカン箱に死体を入れられ

海に流されたそうです。

その光景を、長山さんは

頬づえをつきながら

ずっと眺めていたそうです。

幾日か経って、佐世保港に到着し

接岸しました。

一足先に帰国していた父親が

迎えに来て長山藍子さんを

抱きかかえたそうです。

その時、父親の手のひらには

京都の駄菓子金平糖が乗っていて

奇麗なお菓子と思って口に入れ

味わった事は、今も忘れられない

と思い出話を語っています。

一歩間違えば残留孤児になる

とも話しています。

帰国後、小学校へは東京の成蹊小学校に

入学しました。

子供の頃から芝居に親しんで

自宅に有る本が好きで
本をよく読んでいました。

小学校の演劇部に所属して

本が好きだった事から演劇に対する

志を長山藍子さんは持っていたのでしょう。

父親から芝居のチケットを貰い親しんでいました。

成蹊中学校へ進学しました。

中学校に入ってからも演劇部を続けていました。

中学2年生の時に、父親(45歳の若さで)が他界しました。

東京での生活も父親が他界した後

叔母が住んでいる熱海に身を寄せます。

母親は通信社をやめて、叔母が経営している

美容室を手伝うために

美容師資格を持っていたる

長山藍子の生い立ち!幼少時代は戦争経験!帰国後は東京・熱海で過した!
まとめ

 

戦争真っただ中で、長山藍子さんは

蒙古聯合自治政府厚和市で

通信社の記者と雑誌記者の母親との

間に生まれました。

生まれた時期は戦争のまっただ中

フフホト市は中国の西部に位置し

その場所から1500km東部の

長春市に移動して、この地で

情報収集しては戦争との

戦いを訴えてきた長山藍子さんの

両親は家族を安全な場所へ

疎開生活は、今起こっている

二度とやってはいけない

隣国との戦いは、長山藍子さんには

どう写っているでしょうか。

後期高齢者の仲間入りの女優は

これからも、舞台に映画に

日本新劇俳優協会理事として

若手俳優の育成に指導を

よろしくお願いいたします。

また、これからも健康に気を付けて

出演の出番を続けてください。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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