こんにちは、
自由まなぶです。
「わくわくウキウキブログ」
にお越しいただきありがとうございます。
ここのところ、テレビに姿を見なくなって、
地方回りで忙しい橋幸夫さんが
突然テレビで歌手としての
けじめでしょうか引退することを
表明した映像を観ました。
少し鼻声で歌う印象が強く
頭の中で、頭をひねって歌う歌手でした。
そんな橋幸夫さんの姿を久しぶりに観ました。
橋さんの生い立ちから歌手までの事を
調べようと思いました。
調べているうちに色々な事が
出てきたので記事にまとめてみました。
橋さん、和服姿が印象的で
61年前のヒット曲が
潮来笠という曲は少し民謡的なところが有って
編笠をかぶった旅人の姿を歌った曲
当時は口ずさむ曲としてヒットした。
まだ、幼い小学高学年だったわたしも
まねして、替え歌として大人の人が
歌っていたのを歌ってました。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
橋幸夫のプロフィール
- 本名:橋 幸男(はし ゆきお)
- 別名:風間 史郎・勅使原 煌
- 生年月日:1943年5月3日
- 年齢:78歳
- 出身地:東京都荒川区
- 身長:167cm
- 体重:63kg
- 血液型:A型
- 星座:おうし座
- 学歴:荒川区には小学校が20校あります。
豊島区の小学校に転校しています。19校有ります。
城西大学城西中学校に通った可能性があります。
城西大学附属城西高等学校卒業 - 趣味:パソコン・アイロンかけ・ドライブ・ゴルフ
- 特技:絵画
- 職業:歌手・俳優・プロデューサー
- ジャンル:演歌・歌謡曲
- 活動時期:1960年-
- 所属事務所:歌手デビューから60周年を
- 迎えJVCケンウッド・ビクターエンターテイメントに回帰
幼い頃の橋幸夫の実家は
橋さんのプロフィールからでは
良く分らないので、いろいろ情報を集めました。
父親は東京荒川区で染物店を開業して、
染め職人として働いていました。
母親は芸事が好きで歌手に憧れていましたが、
9人兄弟(6男3女)の一番下の
末っ子として生まれました。(一番上の兄とは24歳も年が離れています)
東京・荒川区は空襲で染物店が焼けてしまい、
一家は豊島区池袋に移転します。
移転した後は、橋一家は洋服店を営み、
両親、長男、長女が店員になって
家計を支えていたそうです。
洋服店では、お店の雰囲気を出すために、
音楽を流していたのでしょう。
幸男が小学校から帰ってくると、
店内に歌謡曲を流しては、
家族の誰かが、口ずさんでいたのを、
幸男は自然とメロディへを覚え
音楽の環境で育っていったのです。
蓄音機で当時流れていた曲は
「君の名は」「愛染かつら」「青い山脈」と
いずれも、映画になった主題曲です。
幸男も自然に歌手も覚えたのだと思います。
今のように、曲と歌詞を覚えようとしても
中々覚えられません。(若くないから)
とにかく、洋服店で流れていた曲は
当時ヒットしていた曲だったのではないでしょうか?
学校行事の遠足のバスの中で
「必ずと言っていいほど」マイクが
後ろから前から回します。
自分の番が来ると、歌えない人は一言しゃべり、
歌い人は童謡、民謡を歌っていたみたいです。
幸男少年は、自宅の洋服店で
聴いていた曲「黒百合の歌」繊井茂子さんが
歌っていた曲を歌ったそうです。
バスの中はきっとどよめいたはずです。
小学生の歌では有りません。
「♪くろゆりは ♪こいのはな ♪あいするひとに ♪ささげれは・・・」
君の名は第二作の曲として流れていました。
先生は「幸男!なんでそんな歌知っているんだ!」と
バスの中に居た生徒・先生が驚いたそうです。
小学生の頃から歌手を目指していたのでしょうか?
その後、中学校に入学し、幸男少年は
空手に興味を示し、2年生の時、
少しぐレタ連中と付き合うようになり、
身なりも中学生とは思えない姿を見た母は、
兄に幸男を仲間から切り離す事を
話し合って、決めたそうです。
幸男少年は母の年齢が42歳の時の
子供だったそうで、それはそれは可愛がっていたから、
心配になって、幸男少年を兄の住んでいる
中野区の呉服店に引っ越しさせて
学校に通わせたそうです。
長男は洋品店で青年商工会議所の役員になって成功し、
呉服店で染め職人だった父にプレゼントしたそうです。
母は幸男少年がグレる連中と一緒に
遊びだすのではないかと、心配して、学校が終わったら、
何かさせたいと思っていたそうです。
橋さんの隣が床屋さんで大将が
たまたま「遠藤実の歌謡教室」の生徒だったことで
幸男を無理やり、教室に入れられないかと掛け合ったそうです。
学校から帰ってくるタイミングで
母親が「今日は出かけるよ」と言って、
強引に遠藤先生の自宅に連れて行ったそうです。
床屋の大将に紹介してもらって、
遠藤先生に初対面で、母親から幸男は
まだ中学2年生と紹介すると
遠藤先生は驚いた様子だったそうです。
母親は無理やり遠藤先生の歌謡教室に
連れていかれ、母親は「続けているうちに
歌が好きになるから」と言って、週二回の
レッスンを受けるようになったのです。
池袋の学校から中野に帰ってくると、
お兄さんがバイクを準備して、
連れ去らないように乗せて
西荻窪の「遠藤実歌謡教室」まで送迎しました。
週二回のレッスンが幸男にとっては、
興味を示し始め、友達と遊ぶ時間は完全に無くなり
友達全員とも疎遠になって行ったのです。
(母と兄の計画は成功したとそうです)
歌手になる一歩を進み始めました。
橋幸夫の家族や生い立ちは?若い頃から歌い80歳の誕生日に引退!のまとめ
中学生時代から親に勧められひょんなことから
歌手への道を勧められた幸男少年は、呉服店を継ぐことなく
母親がなりたかった歌手に成長しました。
9男女の末っ子ですから、家族は末っ子は自由に
将来を生きて欲しいと思っていたのでしょう。
東京生まれの幸男少年は、他の歌手とは
見ていても違った雰囲気を持っていると思いました。
江戸っ子だからという雰囲気を持っていたのでしょうかね。
大きな病気もなく、歌い続けた橋幸夫さん
しかし、年齢には勝てないと思ったのでしょう。
わたしもそう思います。
歌う音程と発声、声帯が喉からかすれる歌を
お客さんに聴かせるわけにはいかないと思ったのでしょう。
そのこともあって、歌手生活を終えて、第二の人生の俳優として
行く事を決めて80歳からの夢「いつでも夢を」の様に
進んでほしいと私たちは願っています。
今回の記事は橋幸夫さんが引退表明を
仲間入りの御三家(後期高齢者)
舟木一夫さん・西郷輝彦さん・橋幸夫さん
の三人の橋幸夫さんが80歳になったら
歌手を引退すると表明されたことが気になって
記事にまとめてみました。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。