こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただきありがとうございます。
今回の記事は日本の音楽シンガーソングライターで
俳優でもある徳永英明さんが高音で特徴のある声の
持ち主でもある徳永英明さんの
出身地に思いを読み起こす福岡の人間なんだと
話していたのが気になって幼い頃の生い立ちを
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
父親の仕事で、福岡県柳川生まれ
徳永英明が住んでいた場所
福岡市から私鉄の西鉄電車大牟田線で
約1時間20分程の水郷の町です。
この町の特徴は、市内いたるところが水路になっていて
水の町でも有名な場所です。
江戸時時代はこの町を柳川藩立花家が管轄して
福岡県の築後南部を支配していました。
徳永少年は、柳川という町でどんな遊びを
していたのでしょうかね?
水郷の町を4km程南下すると有明海が
見えてきます。
有明海は遠浅で、砂地ではなくガタと言われる
砂と泥が混じった海で、珍魚に海藻類が
多く自生しています。
中でもハゼ科のムツゴロウやカニ、イイダコ等
有明海が楽しくて春先から夏にかけて
理科の勉強になる海の資源がいっぱいです。
そんな、場所へ自転車?近所の先輩たちと一緒に
川沿いを走って、取り出かけていたのではないでしょうか。
それに、柳川にはうなぎのお店が22軒も有ります。
昔はもっとあったかもしれませんが、
江戸時代から続くうなぎ料理
徳永少年も、家族で一度は食べていたと思います。
私も、幼い頃に母方のお爺さんと一緒に柳川で
うなぎを食べた事が有りました。
お店の名前は、幼かったから記憶に有りません。
しかし、7年前に柳川藩主立花邸「御花」で
うなぎを庭を見ながらうなぎを頂きました。
豆知識
柳川のうなぎめし、ご飯が味付けされていて
せいろ御蒸しにしてあって、錦糸卵が
ウナギのかば焼きの上に掛けてあるものや
味付けご飯の一粒一粒液だしされており
うなぎが程よく焼いてあるのと一緒に
口に含むと、今までに食べた事のない
食感と九州の甘いたれが、食欲を増します。
子供でも、せいろ蒸し重はペロリになります。
徳永英明のプロフィール
- 本名:徳永 英明(とくなが ひであき)
- 生年月日:1961年2月27日
- 出身地:福岡県柳川市
- 身長:175cm
- 体重:67.4kg(標準体重)
- 血液型:A型
- 星座:魚座
- 学歴:久留米市立御井小学校入学
福岡市立別府小学校卒転向・絵を描くのが好きだった
伊丹市立南中学校卒
伊丹市立伊丹高等学校卒
大阪の観光専門学校入学するも後に中退
俳優養成校TBS緑山塾入塾(22歳の時) - 趣味:映画鑑賞・西鉄ライオンズのファン(幻)・テニス・自転車・サーフィン・スキー・スノーボード
- 職業:歌手・俳優
- 活動時期:1986年-
- 事務所:1990年独立マゼラン設立
- 結婚:高野ゆみさん既婚者(元モデル)
- 長男:勇翔(ゆうしょう)さん
- 次男:れいに(漢字表記無し)
徳永少年は柳川から久留米市の御井町に引っ越しして
御井小学校へ通っていました。
そんな慣れ親しんだ柳川の町から久留米に引っ越しして
また、父親の保健の仕事で、今度は久留米から
バスを乗り継して私鉄西鉄電車で1時間30分ほどの
福岡市内の別府に引っ越ししています。
住んでいる場所から4Kmの周辺には
当時の野球は平和台球場での試合が有り
西鉄ライオンズが活躍していた頃でした。
福岡市民は全ての人が、西鉄ファンでしたから
試合に勝つと、知らない人から、おめでとうと言って
仲良くなったりして盛り上がっていました。
今は、福岡ドーム球場になって大濠公園から
移転しましたが福岡市民の中には隠れライオンズファンは
根強くいるんだと思います。
ソフトバンクフォークス(南海)の本拠地になっています。
徳永少年は父親の転勤で小学校を4回転校しています。
小学時代は父親から絵を習って絵を描くのが好きだった。
小学校を卒業と同時に、父親の転勤が大阪の伊丹市への
転勤が命じられて、伊丹市立南中学校に入学します。
当然、徳永少年は幼いころから九州弁を喋りますから
関西弁とは違ったアクセントになって、同級生に
からかわれていじめられていた。
九州男児ですね。いじめている子に
反撃していじめっ子を倒したのです。
それからは、いじめも徐々にへり博多弁も少しづつ
関西弁になって行ったのでしょう。
中学時代は大阪空港が近くに有り、騒音が気になったのでは
ないでしょうか?
中学時代はテニス部に入部して、
鼻歌でも歌っていたのでしょうかね?
何処からともなくお前は歌手に
成れると言う声が聞こえて曲作りを始めた
中学校を卒業して、伊丹市立伊丹高等学校に入学
反抗期の学生時代はヤンキーだったと話て
高校では勉強せずに遊びとアルバイトに明け暮れていた。
今はそんな徳永少年とは思えない、高音で歌い上げる
心に溶け込むような、雰囲気を持っていたのでしょうかね?
学校のクラブはサッカーとバレーボールの応援団。
アルバイトもいろんな事を経験して、そうめん販売の
アルバイトもした。
勉強はしないと言っていた、徳永少年も無事に
高校を卒業して、旅行関係の専門学校へ入学したものの
2ヶ月で中退した。
徳永少年はとってもおしゃべりさんだったそうです。
今は、そんな徳永英明からは想像もつきません。
中退後は19歳で上京してアルバイトをしながら
ミュージシャンを目指すために、レコード会社の
近くの飲食店で働き、チャンスを見つけるなり
音楽関係者を見つけては積極的にアプローチして
自分で録音したデモカセットテープを渡していた。
仕事をしている時も、新宿のルイードで定期的に
ライブを行っていた。
父親からは「25歳までにデビューできなければ、
親と同じ保険の営業マンになれ」と告知された。
1986年1月21日に発売された1枚目の曲が
「Girl」オリジナルアルバムでした。
それから、数々のヒット曲を生み出して行くのです。
徳永英明の出身地福岡、幼い頃の生い立ち!若い頃の青春の思い出の場所は!のまとめ
父親の仕事で、小学校を転々と転向して
何も知らない、徳永少年は福岡で博多弁を
習得して、次の父親の転勤先へと何も言わずに
引っ越して行き、その地に足を伸ばして
言葉で争うことは、日本に居ても、ある事だと感じます。
私もそうでした。
九州の中でも、博多弁、熊本弁、鹿児島弁と
その土地柄の風土に合った、言葉のやり取りは
戦国時代、味方かどうかをするのに、言葉だったのです。
その習慣が今でも残っていて、それは衣食住でも
分るものです。
徳永英明さんは、生まれ故郷にみれんが
あると言っています。それは生まれた土地の
空気と水が、生まれた時にしみついているからです。
徳永英明さんは歌手の仕事で、一時病気を克服するのに
中止していましたが、復帰されて再び歌への
道を切り拓いています。
どうかこれからも、健康な食生活をして
高音の澄み切った歌をこれからも私に
聞かせてください。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。