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旅先が「温泉地」だとわかった瞬間
車に乗り込んで、しばらく走ったところで娘がようやく口を開いた。
「じゃあ、発表しまーす」
助手席から振り返った娘の顔は、どこか得意げだった。
「今年はね——温泉!」
妻が「まあ!」と声を上げた。私は思わず「温泉か」と呟いた。
正直に言えば、温泉地と聞いた瞬間、頭の片隅に「やっぱり年寄り向けを選んだのか」という気持ちがよぎった。
だが——次に娘が続けた言葉で、その気持ちは霧のように消えた。
「お父さんがね、若い頃によく行ってたって言ってた温泉、お母さんから聞いたんだ。だから、同じ県にある温泉宿を選んだよ」
妻がこっそり笑っている。
どうやら、ずっと前から二人で計画していたらしかった。
「足腰に優しい」は、最高の親孝行だった
宿に到着して、まず驚いたのは宿の方の対応だった。
玄関から部屋まで、段差がほとんどない。廊下には手すりが設えられ、部屋の造りもゆったりと広い。浴場への道のりも、緩やかなスロープが続いていた。
「ここ、全部調べたの?」と聞くと、娘はあっさりと言った。
「当たり前じゃん。お父さんの膝、最近痛いって言ってたでしょ」
——いつ話したのか、覚えていなかった。
それでも娘は、ちゃんと覚えていてくれていた。
親が子どもの小さな変化に気づくように、子どもも親の小さな変化を、ずっと見ていてくれるのだと知った。
後期高齢者の膝の痛みを、娘は旅の設計図に織り込んでくれていた。
露天風呂で、涙をごまかした話
夕暮れ時、一人で露天風呂へ向かった。
山あいの宿だった。湯船の縁に手をかけてゆっくりと体を沈めると、目の前に山の稜線と、茜色に染まった空が広がっていた。
風が、ほんの少し頬をなでた。
湯の温度がちょうどよくて、疲れた足腰がじわじわとほぐれていく感覚があった。
ふと——若い頃のことを思い出した。
この県に来たのは、何十年ぶりだろう。あの頃はまだ髪も黒くて、膝の痛みなんて知らなくて、将来のことを漠然と夢見ていた。
あの青年が今、後期高齢者になって、娘に連れられて同じ空の下にいる。
なんだか、おかしくて。なんだか、嬉しくて。
目頭が熱くなったのは、湯気のせいだということにした。
夕食の席で、娘が言った一言
部屋に戻ると、夕食の準備が整っていた。
地元の食材を使った料理が、膳の上にずらりと並んでいる。娘が「消化に良いもの多いよ」と笑いながら言ったが、その豪華さに三人で顔を見合わせた。
お銚子を傾けながら、娘が静かに言った。
「来てよかった?」
「来てよかった」
私が答えると、娘は「よかった」とだけ言って、お猪口を口に運んだ。
それだけで十分だった。長い言葉はいらなかった。
温泉の温もりが、まだ体の奥に残っていた。
温泉地は、後期高齢者の「リセットボタン」だった
旅館の布団は、自宅のベッドよりずっと早く眠りに誘ってくれた。
目を閉じながら思った。
足腰に優しい宿を選んでくれた娘の気遣い。若い頃の思い出の地を調べてくれた妻の愛情。露天風呂から見た夕暮れの空——。
温泉は体だけでなく、心までほぐしてくれるものらしい。
後期高齢者にとって、旅とは単なる観光ではない。
過去と現在がやわらかく溶け合う、特別な時間なのだと——この夜、しみじみと感じた。
次回・第3話「新幹線の窓から見える景色に、思わず涙が出た。娘と妻と、三人で旅する幸福論。」につづく……♨️
📝 読者の皆さんへ 「温泉旅行」と聞くと、少し地味に思えるかもしれません。でも——大切な人と一緒に浸かるお湯の温かさは、どんな絶景にも負けないと私は思っています。あなたも大切な人と、ゆっくり温泉へ出かけてみませんか。きっと、言葉にならない何かが、胸の中に残るはずです。🌸

