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第一の岐路——就職の選択
最初の大きな分岐点は、就職のときだった。
二つの会社から、内定をもらった。
一つは——大きな会社だった。安定していて、給与もよく、周囲の誰もが「そっちに行け」と言った。
もう一つは——小さな会社だった。当時はまだ知名度もなく、将来どうなるかもわからなかった。でも——仕事の内容が、面白そうだった。
父に相談した。
父は少し考えてから、こう言った。
「大きいところに行け。安定が一番だ」
私は——小さい会社を選んだ。
父の言葉に反して。
周囲の反対を押し切って。
「面白そう」という、それだけの理由で。
その選択は——正しかったのか。
77歳になった今も、時々考える。
大きな会社に行っていたら、もっと安定した人生があったかもしれない。もっと出世していたかもしれない。もっとお金があったかもしれない。
でも——小さな会社での仕事は、面白かった。
何でもやらなければならなかった。失敗も、山ほどした。でも——一つひとつの仕事が、自分の手で動かしている実感があった。
大きな会社に行っていたら、あの実感はなかっただろう。
あの「面白そう」という感覚だけを信じた若い自分が——今の私の土台を作った。
正しかったのかどうか、今もわからない。
でも——後悔はしていない。
それだけは、確かだ。
第二の岐路——転職の誘い
30代の半ば、同業他社から転職の誘いがあった。
条件は、破格だった。給与は今の1.5倍。ポジションも上がる。将来性も十分にある——誰が聞いても「行くべきだ」という話だった。
当時の私は、仕事に燃えていた。もっと上を目指したかった。もっと大きな仕事がしたかった。転職の話は——渡りに船のようだった。
妻に相談した。
妻はしばらく黙っていた。
そして——こう言った。
「あなたが決めることだけど——今の仕事、楽しそうだよね。いつも」
その一言で、止まった。
楽しいのに、なぜ辞めるのか。
条件が良いから。上に行けるから。お金が増えるから——。
でも——今の仕事が楽しいという事実が、そのどれよりも重かった。
私は転職を、断った。
その選択は——正しかったのか。
転職していたら、もっと出世していたかもしれない。もっと豊かな老後があったかもしれない。
でも——転職を断って、同じ会社で働き続けたことで、得たものがある。
長年付き合えた同僚がいる。積み重ねてきた信頼がある。退職の日に、後輩たちが送別会を開いてくれた。
あの送別会の夜——私は、正しい選択をしたのだと思えた。
でも、今でも雨の夜には思う。
あの転職を受けていたら、どうなっていたか——と。
人間とは、欲張りなものだと思う。
選んだ道に満足していても——選ばなかった道が、気になってしまう。
第三の岐路——父の言葉を、聞かなかった日
これは——後悔が残っている話だ。
父が病気になったとき、地元に戻ってこいと言われたことがある。
「お前に継いでほしいものがある」と、父は言った。
でも——そのとき私は、仕事の山場にいた。大事なプロジェクトを抱えていた。「今は無理だ。落ち着いたら帰る」と言った。
父は「そうか」と言って、電話を切った。
落ち着く前に——父は逝った。
「継いでほしいもの」が何だったのか——父は逝くまで、教えてくれなかった。
あのとき、仕事を置いて帰っていたら。
「落ち着いたら」ではなく「今すぐ」帰っていたら——父が何を言いたかったのか、知ることができたかもしれない。
その「かもしれない」が——今も、胸の奥に小さな痛みとして残っている。
これが——選択の中で、一番悔やんでいることだ。
仕事は、別の誰かがやれた。でも——父の言葉を聞けるのは、私だけだった。
第四の岐路——息子とぶつかった、あの夜
息子が大学を卒業するとき、就職のことで大きな衝突をした。
息子は——父親とはまったく違う業界に進もうとしていた。
私は反対した。
「安定した仕事に就け」と言った。
かつて父に同じことを言われて、反発した自分が——今度は息子に、同じことを言っていた。
息子は反論した。
「お父さんだって、大きな会社じゃなくて自分が面白いと思った会社に行ったじゃないか」
言い返せなかった。
正論だった。
でも——父親というのは、正論に負けても、すぐには折れられないものだ。
その夜は、二人で険悪なまま別れた。
結局、息子は自分の道に進んだ。私が折れたのか、息子が押し切ったのか——今となってはよく覚えていない。
ただ——息子の選んだ道は、息子に合っていた。
息子は今、自分の仕事に誇りを持っている。それだけは、電話での声からわかる。
あのとき反対しなければよかったと——今は思う。
でも、あのとき反対したことで、息子は自分の意思で道を切り開いた。
反対されたことが、息子の背骨を強くしたのかもしれない。
そう思うことにしている。
親の反対が、子どもを強くすることもある——そう信じることが、あの夜の自分への、唯一の弁解だ。
岐路に立った自分たちへ、手紙を書いた
雨音を聞きながら——便箋を取り出した。
人生の岐路に立っていた、いくつかの自分へ。
一枚の手紙に、まとめて書くことにした。
岐路に立っていた、様々な頃の自分へ。
今夜は雨が降っている。 雨の夜は、お前たちのことを思い出す。
就職を迷っていたお前へ。 転職を断ろうとしていたお前へ。 父の電話を「後で」と先送りにしたお前へ。 息子とぶつかった夜のお前へ。
それぞれの岐路で——お前たちは悩んだ。 眠れない夜があった。 誰かに相談して、それでも決めきれない日があった。 決めた後も、「正しかったのか」と問い続けた。
77年生きてきた今の私から——一つだけ言わせてほしい。
その悩みは、無駄ではなかった。
どの選択が正しかったかは——今も、わからない。 選ばなかった道の先に何があったかは—— 誰にも、わからない。
でも——悩んだことは、正しかった。
悩んだということは、それだけ真剣だったということだ。 どちらの道も大切だったから、迷ったのだ。 いい加減な人間は、悩まない。 どうでもいい選択に、眠れない夜を費やさない。
お前たちが悩んだのは——それだけ、人生を真剣に生きていたからだ。
就職を迷っていたお前へ。 「面白そう」という感覚を信じたことは—— 正解だったと、今は思う。 条件より、感覚を信じた若い自分を——誇りに思っている。
転職を断ったお前へ。 妻の一言に耳を傾けたことは—— 正解だったと、今は思う。 大切な人の言葉を、ちゃんと聞けたお前を——誇りに思っている。
父の電話を先送りにしたお前へ。 これだけは——正直に言う。 後悔している。 でも——その後悔があったから、 「今日言える言葉は今日言え」を 骨身に染みて学べた。 その学びが、妻への手紙を生んだ。 娘への言葉を生んだ。 息子への釣り竿を生んだ。
お前の後悔が——その後の私を、変えてくれた。 だから——その後悔にも、意味があった。
息子とぶつかった夜のお前へ。 反対したことを、責めなくていい。 父親は、子どもを心配するから反対する。 それは——愛情だ。 形の悪い、不器用な愛情だが——愛情だ。
息子は今、自分の道を誇りを持って歩いている。 それで十分だ。 あの夜の衝突も——父と息子の歴史の一ページだ。
最後に——全ての岐路に立っていたお前たちへ。
どの道を選んでも——後悔はあった。
これだけは、断言できる。
右を選んでも、左を選んでも—— 「もし逆だったら」という問いは、消えない。 それが人間というものだから。
でも——今日の私がいるのは、 お前たちが選んできた道の上だ。
全ての選択が積み重なって—— 今日、縁側でお茶を飲む77歳の私がいる。
妻が隣にいる。 娘が旅行計画書を持ってくる。 息子が釣り竿を大切にしている。 孫が古銭を自慢している。
これが——お前たちが選んできた道の、答えだ。
正しかったかどうかより—— 今日が、こんなに温かいということが—— 全ての答えだと、私は思っている。
雨の夜にしか言えないことを——今夜、書いた。
77歳の自分より
書き終えた。
雨音が、少し静かになっていた。
窓の外を見ると——雨が、細くなっていた。
やがて、止むのだろう。
77年で辿り着いた、選択についての答え
人生の選択について——77年生きてきて、一つだけわかったことがある。
「正しい選択」は、選んだ瞬間には存在しない。
選んだ後の生き方が——その選択を「正しかった」にするか「間違いだった」にするか、決めていく。
就職の選択が正しかったのは——その会社で一生懸命働いたからだ。
転職を断った選択が正しかったのは——残った会社で誠実に仕事を続けたからだ。
息子と衝突した夜が意味を持つのは——その後も、息子との関係を諦めなかったからだ。
選択そのものに、正解はない。
選んだ後の歩み方が——正解を作っていく。
それが——77年かけて辿り着いた、人生の選択についての答えだ。
「もし違う道を選んでいたら」という問いへの、最後の答え
雨が上がった。
窓を開けると——夜の空気が、少し澄んでいた。
遠くに、星が見えた。
「もし違う道を選んでいたら」——その問いに、今夜の私はこう答えよう。
違う道を選んでいたら、違う景色があった。
でも——この道を選んだから、この景色がある。
妻と歩んだ50年。娘が旅行計画書を持ってくる笑顔。息子の「大切にする」という四文字。孫が膝の上で眠った午後。縁側のお茶の温かさ。絶景の前で流れた涙——。
この景色は——この道を歩いたから、見えた景色だ。
他の道には、他の景色があっただろう。
でも——この景色は、この道にしかなかった。
そしてこの景色が——私には、何より美しい。
雨上がりの夜空を、しばらく眺めた。
星が、少しずつ増えていった。
どの星も——それぞれの場所で、ちゃんと輝いていた。
人生の選択も、きっとそういうものだ。
どの道を選んでも——ちゃんと輝ける場所が、そこにある。
大切なのは——選んだ道で、精一杯輝くことだ。
それだけが——77年かけて、雨の夜に辿り着いた、答えだ。
縁側に出た。
雨上がりの空気が、冷たくて、気持ちよかった。
お茶を一口飲んだ。
美味しかった。
今夜選んだ道——眠れない夜に手紙を書くという道——も、悪くなかった。
そう思いながら、夜空を眺めた。
どの星も、美しかった。
次回・最終話・第10話「残りの日々が『いつまで』かはわからない。だから今日——この手紙を、あなたへ届けたい。後期高齢者が辿り着いた、人生最後の答え。」につづく……✨
📝 読者の皆さんへ
今、「あの選択は正しかったのか」と思っていることは、ありませんか?
就職、転職、結婚、引っ越し、あの一言—— 「もし違う道を選んでいたら」という問いが、 心のどこかに眠っていませんか?
今夜、雨が降っていたら—— その問いと、正直に向き合ってみてください。
そして——こう思ってみてください。
「あの選択があったから、今日の私がいる」と。
正しかったかどうかより—— 今日が温かいかどうかが、答えです。
今日が温かいなら—— あなたの選んできた道は、全部正しかった。
雨の夜は、過去と和解するための時間です。 そして朝になれば——また前を向けます。✨🌸

