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「着いたよ、お父さん。目、開けていいよ」
娘に言われるまま、私は車の中で目を閉じていた。
「絶対に途中で開けないでね」と念を押されながら、どれくらい走っただろう。妻がとなりで「もうすぐよ」と囁いた。車が止まった。ドアが開いた。娘に手を引かれながら、ゆっくりと外に出た。
足の裏に、砂利の感触。
潮の匂いが、鼻をかすめた。
「じゃあ、開けて」
言葉が、出なかった
目を開けた瞬間——私は、息を飲んだ。
どこまでも続く、青い海。水平線が丸く弧を描いていた。空の青と海の青が溶け合って、その境界線がどこにあるのかわからないほど、世界が青に満ちていた。
波の音だけが、静かに聞こえていた。
「どう?」と娘が隣で聞いた。
答えられなかった。声が出なかった。
気づいたら——目に、熱いものが込み上げていた。
80年以上生きてきた男が、娘の前で泣いた。恥ずかしいとは思わなかった。それより先に、涙が出ていた。
80年間、なぜここを知らなかったのだろう
若い頃は、旅行どころではなかった。
仕事に追われた30代、子育てに必死だった40代、親の介護が重なった50代——気づけばいつも、「いつか行こう」と思いながら、どこにも行けないまま年を取っていた。
「いつか」は、来ないまま終わるかもしれなかった。
でも——娘が連れてきてくれた。
もうすぐ50歳になる娘が、後期高齢者の父親のために、この場所を探してくれた。「お父さんが海を好きだって、お母さんから聞いたから」と、娘は照れくさそうに言った。
妻は何も言わずに、私の手をそっと握った。
人生で「初めて」に出会える幸福
しばらくの間、三人で黙って海を眺めていた。
観光客も少なく、風だけが穏やかに吹いていた。娘がそっとスマートフォンを向けて、写真を撮ってくれた。
「いい顔してるよ、お父さん」
画面の中の自分を見た。シワだらけの顔が、それでも確かに——笑っていた。
80年生きてきて、この顔が撮れるとは思っていなかった。
人生に「初めて」が残っていた。まだ、見たことのない景色があった。まだ、こんなにも胸が震えることがあった。
それを教えてくれたのは——ほかでもない、娘だった。
帰り道、娘がぽつりと言った言葉
帰りの車の中で、娘がぽつりとつぶやいた。
「お父さんが泣くとこ、初めて見た」
私は窓の外を見たまま、答えた。
「お父さんも、初めて泣いた」
娘が笑った。妻も笑った。私も笑った。
夕暮れの道を、車はゆっくり走った。
オレンジ色に染まった空を見ながら、私はひとつだけ思った。
長く生きるということは、こういうことなのかもしれない。
まだ見ぬ景色のために、まだ会えぬ感動のために——今日も、元気でいよう。
娘よ、ありがとう。
おかげで今日、80年分の「よかった」が、一度に込み上げてきたよ。
次回・第7話「娘とふたりで歩いた城下町。石畳の道で、昔の父と娘に戻れた気がした午後。」につづく……🌊
📝 読者の皆さんへ
「もう歳だから」「今さら行っても」——そう思っていませんか? 絶景は、若者だけのものではありません。 長く生きてきたからこそ、涙が出るほど美しく見える景色が、この世界にはきっとあります。 あなたにも、まだ見ぬ「人生初めての絶景」が、どこかで待っているはずです。🌅

