わくわくウキウキブログ

寺脇康文の生い立ち!幼い頃大阪府堺市から岐阜で育った!実家の家族!

こんにちは、自由 まなぶ です。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は、俳優の寺脇康文さんです。

ちょっと変わった刑事役で水谷豊さんの

「相棒」として「亀山薫」の名前で登場する。

NHKのテレビ連続ドラマでは「塾長」役

出演しました。

そんな寺脇康文さんの

生い立ちや育った場所が

どんな所だったかが

気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

寺脇康文の生い立ち!

 

大阪府堺市は古墳群が多く仁徳天皇陵古墳が有り

大阪府の泉北地域で大阪市に次ぐ

人口が多い町です。

町は工業が盛んな場所で、

大手農機具メーカーや釣具メーカー等

私達にとっては必要なモノづくりの街です。

そんな町で寺脇康文さんは生まれました。

父親の仕事は美術品を輸入販売する会社で

経営をしていた中で寺脇康文さんは

大阪の堺で生まれた。

父親の性格は豪快で気が短く子供っぽい

ところが有って裏表のない性格の持ち主でした。

昭和の父親のイメージがあって

誰からも愛されていた。

寺脇康文さんに父親は会社を

継がせようと考えていたみたいです。

また、母親は夫の会社経営の手伝いをしながら

女性として寿司職人だった。

昔は女性は寿司ネタを握るのを禁じていた。

女性の手の温度が高く新鮮な魚程、

にぎりには鮮度に影響するために

女性には握らせていなかった。

しかし、母親はチャレンジ精神あふれ

パイオニア的存在の人で強い意志を持っていた。

そんな両親の元で大阪で育っていた。

幼い頃大阪府堺市から岐阜岐阜で育った!

幼稚園時代から目立ちがり屋で特に女の子が

大好きで、わざとぶつかった振りをして

好みの女の子に抱きついていた。

当時はまだ幼稚園児で何も分からないふりをして

年上の親戚のお姉さんに添い寝をしてもらった時

甘えるふりをして体をくっつけたりしていた。

幼い頃の特権でもあった。

示談の時に股間を触る事が癖だった。

堺時代、寺脇家と駄菓子屋さんとは近所で

家族ぐるみをする付き合いで、

おばさんは特に寺脇康文さんを可愛がっていた。

「やっちゃん、これ食べてき」と

声をかけてくれていた。

幼い寺脇康文さんにとっては駄菓子屋さんは

「お菓子の食べ放題の夢のような場所」

心躍らせて駆け込んでいた。

公立の小学校に入学して小学2年生になって

両親の仕事の関係で岐阜へ小学校を転校した。

幼い頃からテレビを見るのが好きで

漠然と見ているテレビ出演者に憧れていた。

また、父親の仕事の影響か、きっと海外の

美術品の絵を見ていたことがあって

絵を描く事が好きだった。

将来は夢は漫画家かスターになること。

また、漫画のルパン三世が大好きだった。

目立ちがりやなの性格で草野球をするときには

必ずユニホームを着て参加していた。

当時はまだ、他の子供達はユニホームは着ていなかった。

また、ひょうきんなところがあって人を笑わせる

事が好きで授業中にギャグを思いつき

披露していた。

小学校2年生の時に初恋を経験した。

同級生の女の子のあるきっかけで

「なんて優しい子なんだろう」と思った。

高学年6年生の時に体育実習の先生を

好きになって体育館倉庫で抱きついたことがあった。

小学校を卒業して、中学校は地元の公立中学校に入学した。

小学時代から漫画家を目指していましたが

漫画を描くのは楽しかった

背景を描くのが苦手だった。

毎週月曜日発行のクラスメイトをネタにした

ギャグマンガを描いていた。

テレビを見ていた影響か吉本新喜劇と

ドリフが大好きだった。

その影響で人を笑わせることが好きだった。

中学時代からタバコを吸い始めていた。

タバコの煙は制服にびっしりくっつき

自分ではタバコのにおいは分からないと思っても

匂いは制服について、ばれてしまう

良く、男子トイレでタバコを吸って

教室に戻ってくると、匂いも後からついてくる。

中学の終わりまで漫画家は諦めていなかった。

卒業生に松原梨恵(新体操選手)

中学校を卒業して、県立の高校を受験して

地元の県立高校へ入学した。

漫画家を志していた寺脇康文さんは

高校入学後「アニメーター」になるのを諦めた。

自分は無理と判断したのです。

テレビが好きでなんとなく「役者ならできるかな」。

テレビドラマを観ていて松田優作さんや水谷豊さんの

モノマネを一人でしては喜んでいた。

女の子にコンサートのチケットを送ったが

送り返されたことがあった。

高校時代は初の彼女ができてエンジョイしていた。

進学校で大学受験を控え、周りに流されて

大学を受験したものの不合格だった。

その後、東京の予備校に通いながら

アルバイトをして実家へ帰る汽車賃を稼いだ。

もらったお金は万円札が数枚入っていた。

寺脇康文さんはこのまま予備校を続けるか

自宅から近い予備校、または名古屋の俳優養成所を

受験して合格した。

選択して大学に行くより、養成所に半年間通った。

東京本社から「東京事務所に来ないか」と

声がかかり、翌年4月から東京一人暮らしを始めた。

しかし、月曜から土曜日まで授業を受けて

日曜だけがバイトというで何時俳優の仕事が来るか

思い描いていた結果が出なかった。

そのために、原宿竹下通りでスカウトされるのを

目的に朝夕何度も往復した。

いろいろな劇団の舞台を観て回って

面白いものがあったと衝撃を受けた。

三宅裕司の劇団に入所した。

1987年には同僚の岸谷五朗さん、山田幸伸さんと

コントユニット「SET隊」を結成した。

当時は俳優とお笑いを掛け持ちして

お笑い番組に出演した。

1990年から俳優業が中心になって

数々のテレビドラマに起用されその6年後

「王様のブランチ」に司会者として起用され

知名度が大幅に上昇し人気になっていった。

ドラマ「相棒」に出演して人気俳優になった。

寺脇康文のプロフィール

■実家家族

  • 父親:寺脇商事の経営者で美術品を輸入し販売の方です。
  • 母親:夫の会社経営を手伝いながらね女性寿司職人だった。
  • 長女:一般の人です。
  • 次女:一般の人です。
  • 長男:本人
  • 次男:寺脇博之医学博士(帝京大学総合医療センター賢臓内科の教授)

家族

  • 夫:本人
  • 妻:元女優です。
  • 長男:1988年生まれ
  • 長女:1990年生まれ
  • 次女:1992年生まれ

寺脇康文の生い立ち!幼い頃大阪府堺市から岐阜岐阜で育った!実家の家族!まとめ

大阪府堺市の海外の美術品を扱う父親と

寿司を握る女性寿司職人と女性としては

珍しい寿司職人でした

そんな、両親の元で寺脇康文さんは生まれた。

海外の美術品を幼い頃から目に焼き付けた事で

絵を描くのが好きだった少年は

漫画家として志したのです。

しかし、テレビっ子で俳優の夢も捨てきれず

高校時代、大学受験したものの、不合格。

将来の夢(漫画家)を諦めて、

俳優の道を選択しました。

その結果、相棒に抜擢されて

俳優として寺脇康文さん

これからも、体に十分気を付けて

健康でさらなるご活躍される

ことを期待し応援して行きます。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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