わくわくウキウキブログ

加藤雅也の生い立ち!幼い頃に奈良公園のそばで育った!実家の家族は!

こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は、還暦を迎える

人生の節目に当たる俳優さんを

取り上げてみました。

奈良の奈良公園近くに両親と

祖父母は一緒に住んでいました。

祖父母は教師で、父親はサラリーマン

母親はパートで働いていました。

両親の元で、加藤雅也さんが生まれました。

そんな加藤雅也さんの

生い立ちや育った場所が

どんな所だったかが

気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

加藤雅也の生い立ち!

 

奈良公園近くで生まれた

加藤雅也さんは公園の鹿と

遊んでいたと思います。

奈良の鹿は天然記念物に指定され

メス鹿の方がオスより3倍近く

多くいます。

理由はメスの方が長生きするからです。

鹿は約1300年の昔から大切に保護されて

いたからこそ1957年に国の天然記念物に

奈良のシカ」として指定されました。

加藤雅也さんより6年も前に指定されていたんですね。

幼い頃に奈良公園のそばで育った!

加藤雅也さんは動物との触れ合いが

幼い頃から自宅のすぐそばに

自然と鹿がマッチした公園で毎日の様に

遊んでいたと思います。

幼い頃はスポーツが得意で、かけっこは

友達より速く駆けていた。

幼稚園から小学校は公立小学校で

奈良市内で1874年に開校した伝統校のひとつです。

小学校時代は剣道を習って道場に通っていた。

学校の成績もよく、スポーツと文武両道でした。

当時のテレビっ子は「太陽にほえろ」刑事ドラマ

流行して、松田優作さんの主演で演じているのを見て

加藤雅也さんはファンだった。

その他にも「横溝正史シリーズ」は良く観た。

また、「赤い衝撃」のウェアが気になってアディダスを着ていた。

自宅から少し離れた平城京跡で野球や凧あげをして遊んでいた。

小学校を卒業する前に中学受験を受けるために

小学校高学年になって学習塾へ通っていた。

東大寺学園と奈良女子大附属の二校を受験しましたが

両学校とも不合格でした。

そのために地元奈良市内の公立中学校に入学しました。

この中学校は1947年開校ですが

夜間学級を設置しています。

珍しいですね。自宅を手伝って昼間の時間帯に

通えない生徒がいて、夜間学級を設けているのでしょう。

中学時代は帰宅部だったのでしょうか

中学時代のエピソード等は見当たらなかった。

ひょっとしたら走るのが好きだったので陸上部に

在籍していた可能性は否定できません。

中学校を卒業して高校受験は県内のトップレベルの

進学校で多くの人材を政財界に輩出しています。

その学校に合格して陸上部に所属しました。

他にもスキーや水泳が得意でスポーツマンでした。

高校3年生の時、インターハイのリレーに出場しました。

この間、学校での勉強は試験前は図書室で

勉強をしていた。

文武両道とスポーツに勉強の両立を図りながら

また、英語が得意だった。

卒業生には哲夫お笑い・笑い飯

高校は県下有数の進学校で進学率は100%生徒は大学に進む。

高校を卒業して大学受験を選択した大学は

関東の横浜国立大学を受験し見事合格しました。

祖父母が教師という事で、加藤雅也さんも教師を目指した。

学校の先生の学部としては教育学部で保健体育を専攻して

小・中・高校の保健体育教師の教員免許を取得した。

学校の先生になるには教育実習がおこなわれ

小中高校の学校を訪問し実習を実施するのです。

その時、加藤雅也さんは違和感を感じ

教師になる事を諦めたのです。

授業の実習の際、縦社会が強すぎる。

自由に教えられるかと思っていたそうですが

自分の思う教育ができなかったから!

意外にも保守的だったという事で

教師として加藤雅也さんはやっていけないと思った。

大学時代はボクシング部に所属していた。

学業にも精を出して3年生までに教師になる単位を

取得しています。

大学3年生の時在学中に知人に誘われてモデルの仕事を始めた。

その間にスカウトされモデル事務所に所属して

モデル活動を開始した。

大学時代はファッションモデルではなく、チラシや広告のモデルを

中心にやっていた。

友達に誘われてアルバイトのつもりでモデルの仕事を

この時は全く興味はなくファッション誌も読んだことが無かった。

大学4年生の時に教育実習に横浜国立大学附属鎌倉中学校・小学校で

教員免許を取得した。

しかし、教職員になるつもりはなかった。

また、企業などに就職する考えもなかった事で

大学卒業後もモデルの仕事を続けた。

自ら売り込んで雑誌「メンズクラブ」「メンズノンノ」などで活躍した。

モデルとしてパリコレにも出演しています。

モデルに専念する息子を見て、母親は非常に心配していましたが

父親は「好きなことをやればいいじゃないか」と背中を押してくれた。

ファッションモデルとしてはパリコレにも出演していますが

190cmほどある外国人モデルを見て「限界を感じた」

モデルとしては低身長だったので、事務所からは俳優に転身させられた。

転身して1988年25歳の時に俳優として

いきなり映画「マリリンに逢いたい」の主演に起用された。

この映画の主役の応募に3000人が

オーディションを受け、3000人の中から

演技も評価され日本アカデミー賞新人賞を受賞した加藤雅也さんが選ばれた。

さらに翌年にはNHKの朝ドラ「青春家族」に出演し

全国の方々から人気を獲得した。

 

俳優に転向して端正な顔立ちで、すぐ人気俳優の仲間入りとなった。

その後テレビドラマなどで活躍が目覚ましく、

数多くの作品に出演しています。

芸名を「加藤 昌也」から「加藤 雅也」に改名しました。

20歳代の頃、本格的に英語を勉強するために

活動の場をハリウッドに求めてロサンゼルスで6年間過ごしました。

初めてアメリカでオーディションを受けた時

「君の英語は何を言っているのかわからない」と言われてショックだった。

発音には自信を持っていただけに、愕然とした。

1989年「NOBODY」というアメリカ映画に出演した。

加藤雅也のプロフィール

実家の家族

  • 父親:サラリーマン一般の方です。
  • 母親:一般の方です。
  • 長男:本人
  • 兄弟は不明です。

家族

加藤雅也の生い立ち!幼い頃に奈良公園のそばで育った!実家の家族は!まとめ

還暦を迎える今年は加藤雅也さんにとって

テレビドラマに還暦とは思えないほどの

演技を私に見せてください。

これからも、体に十分気を付けて

健康でさらなるご活躍される

ことを期待し応援して行きます。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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