わくわくウキウキブログ

杉良太郎の生い立ち!幼い頃育った場所はすきまかぜ!実家の家族は!


こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は、幼い頃から

母親の後姿を見て苦労している

と感じていた杉良太郎さん。

「楽をさせたい」と思い

父親の仕事は建築関係の

仕事でしたが芸能が好きで

芝居小屋を作りました。

こうした環境の下で

杉良太郎は歌が好きで

歌手になることを志しました。

そんな、杉良太郎さんの

生い立ちや育った場所が

どんな所だったかが

気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

杉良太郎の生い立ち

神戸市長田区宮川町で

南あわじ市の父親と

鹿児島県徳之島の母親の間に

長男で4人兄弟の末っ子として神戸で

誕生しました。

子供の頃は3人の姉と一緒に

遊んでいたのでおとなしくて気弱でした。

また、子供の頃は乳酸品(牛乳・バター・チーズ)が

苦手でした。

建築業と芝居小屋を経営していた

父親の芝居小屋に入り浸りで

歌の練習と芝居の振りを真似して

どの役者が人気が出るか、

どんな出し物が大衆に受けるか

言い当てることができたそうです。

そんな、身振り手振り

そしてどうすれば人気が取れるか

すこしづつ覚えていったのです。

地元ののど自慢大会に出場して

歌を歌うことが好きな子供に

育って行きました。

母親は心の優しい方で

お遍路さんが編笠をかぶって

片手に器、左手には

数珠持って立っていた方に

自宅のコメ箱に一握りの

コメしか残っていなかったのを

渡した。と聞きました。

両親ともに他人に優しい

方だったんですね。

杉良太郎さんは神戸の

坂道の多い小学校に通いました。

中学校に入学してから

父親の親切さに他人の保証人に

なって財産を失って家が貧乏に

なってしまった。

中学在学中に早く働いて

両親を楽にしてあげたいと思っていた。

中学3年生の時に船員志望で

海員学校を受験しましたが

入学したものの視力が悪く

約一年で中退しました。

高校に入学し直す事もしませんでした。

海員学校中退後、幼い頃から

歌が好きだった事から

歌手を志して神戸の夕星歌謡学院に

入学しました。

幼い頃育った場所はすきまかぜ!

住んでいた長田区から元町・三宮まで

電車で40分ほどで繁華街まで

出かけられていた。

神戸市内の「夕星歌謡学院」に入学して

在学中にオーディションの全国大会で

作曲家の市川昭介さんにスカウトされ

18歳の時に歌手を目指して上京しました。

上京先は、向島の3畳一間のアパートを

借りて、仕事先は知人の向島のカレー屋さんで

1日の仕事時間は午前6時から午後11時まで

無給無休(休みは元日のみ)で働き

3食カレーを食べる生活を送りました。

現代社会では、考えられない

仕事ですね

歌のレッスンは、市川家のある

上野駅までは歩いて約50分程の

場所を歩いて通っていました。

とにかく、金銭面で実家からの

仕送りが3万円で、アパート代

歌のレッスン代に支払うとほぼ0円に。

その為に、電車やバスを利用して

止めて、歩いてレッスン場へ出かけた。

無給で働く理由について杉さんは

どんな仕事でも苦労は当たり前

働ければ報酬を貰えば働く

お金を貰わないで働くのは

当たり前ではない道を選んだ。

辛抱してどんなことにも耐えられたら

歌手になれると心から思った。

仕事と歌のレッスンを続けていた時

何とも言えない不安を持ったのは

カレー店がお正月元旦の休みの日だった。

仕事が休みになった日は

行く当てもなく、話し相手もいなく

カレー店の前を行ったり来たりして

腹のすくのをこらえていた。

日が暮れて行くのは、

不安だし心もとないが有って

寂しい思いをした。

歌のレッスンがみのって

1965年にようやく

20歳の時に歌手デビューが決まった。

向島のカレー店から原宿の

家賃2万円の1DKのアパートに

移り住むことができた。

ファーストシングル「野郎笠」で

歌手デビューしたもののヒットしませんでした。

自分の経験は、神戸の芝居小屋の「民衆座」に

有り、父の教え国定忠治は鬼より怖い、

にっこり笑って人を斬る」いまに見返してやる。

新人のくせに、態度がデカイと言われた。

今思えば、ひどい態度をしていたんですね。

と過去を振り返っています。

歌手から俳優デビューは

全国を地道に営業周り

各地のいろいろな場所で歌った。

歌がヒットするにはテレビ出演が一番

近道だと知りつつも、歌手は袖の下(賄賂)が

いるケースが多かった。

当時の相場で約30万円もの

お金が必要だった。

杉良太郎の給料は2万円ですから

到底無理な話でした。

そんな中、俳優として時代劇「燃えよ剣」への

出演依頼が杉良太郎に舞い込んできた。

杉良太郎に目をとめたのは着物姿で

歌っていたのを見て杉良太郎だと思った。

オファーをしたのはフリーアナウンサーの

芥川隆行さんだったのです。

その時、一旦は断ったのですが

主題曲もオファーされ、「コロンビア」から

是非出演しろと言われ

1966年「燃えよ剣」の沖田総司役で

俳優デビューしました。

しかし、幼い頃から歌手志望でしたが

日活から俳優としてスカウトを受け

23歳で時代劇に主演すると大反響。

それから、多くの時代劇に出演して

スターの座を確立しました。

また、若い頃15歳からボランティア活動を

開始し日本の刑務所への慰問活動や

チャリティー・慈善活動を

熱心におこなって人柄も高く

評価されている人物です。

杉良太郎のプロフィール

ジャンル:映画・テレビドラマ・歌番組

  • 財団法人日本・ベトナム文化友好協会理事長
         
  • 法務省特別矯正監
         
  • 外務省日本ベトナム特別大使
        
  •  ベトナム社会主義共和国ベトナム特別大使
        
  •  ハワイ州ホノルル市名誉市長
        
  •  シンガポール日本文化協会名誉会長
        
  •  警視庁特別防犯対策監

 

実家家族

家族

杉良太郎の生い立ち!幼い頃育った場所はすきまかぜ!実家の家族は!まとめ

神戸で裕福な家庭で育っていた

長男で末っ子の杉良太郎さん

父親の趣味が、芝居小屋から

知人の借金を肩代わりして

保証人倒れして、生活は一転

その日の食べ物にも口に届かない

日もあった事でしょう。

杉良太郎さんは母の背中を見て

杉良太郎さんは歌手になる

志で、カレー店で無給無休と

自分の限界を試して、歌手になったのです。

しかし、人の目は歌手ではなく俳優という

着物が似合う歌手と俳優を射止めたのでした。

今は、ボランティア活動として

後期高齢者で現在もファンからは

熱狂的な支持を受けている杉良太郎さん。

これからも健康でご活躍を期待しています。

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今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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