こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事は日本の女優
コメディアン、漫談家、歌手の
泉ピン子さんです。
後期高齢者医療制度の仲間入り
今年は泉ピン子さんにとって
通院している持病で支払っている
医療費が本来位ならば、
国民健康保険であれば
病院に支払う料金が1割負担と
今まで3割負担だった金額が
2割も安くなるんです。
しかし、今年から団塊の世代が
多い後期高齢者の窓口支払いは
2割になっていまいました。
泉ピン子さんの場合は
所得が高いのでその恩恵は
無いと思います。
国民健康保険から後期高齢保険医療制度に移ります。
国民健康保険は区市町村が運営
後期高齢者医療制度は都道府県単位に運営
後期高齢者の保険料は基本的に年金天引きです。
そんな、泉ピン子さんは高額所得の
方ですから3割負担のままだと思います。
日々、忙しいスケジュールの中で
持病であれば通院は必要です。
まだまだ若いと思っていても
年齢には勝てなくなるものです。
行動力が今も続く
泉ピン子さん改めて
幼い頃の生い立ちがどんな所で
育ったのかが気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
泉ピン子の生い立ち!
東京は日本橋で生まれた
母親とは泉ピン子さんが
2歳の時に死別しています。
3歳の時にもともと愛人だった
女性と父親は再婚します。
両親が浪曲師だった影響で
子供の頃から歌が大好きでした。
幼い頃育った場所は銀座!
しかし、出身は東京銀座3丁目交差点
和光時計塔の裏側に実家があった。
実家の表には木村屋のパン、
裏手には山野楽器店が有った。
日本の繁華街ど真ん中で
育っていたのです。
実家から銀座3丁目交差点は
都電が走っていて、車の
交通量も多く最先端を
まじかに見て育って
目前が百貨店の中でも
気品あふれる品揃えは
お金持ちの方達が通っては
高級ブランドの洋服・
身につけるジュエリー等を
購入しては高級車に乗って
銀座を後にしていたのです。
また、銀座はお食事処で
寿司の握りは、昼時になると
ランチを求めて社員の方達が
食べ歩きをしていた。
それに、高級料理店の洋食店では
ランチを出し夜はディナーと
雰囲気を変えた大人の銀座に
代わっていた。
そんな、幼い頃に通った学校は
銀座には都立の小学校が1校
中央区立秦明小学校が
有りましたが、そこの学校ではなく
品川区立区立日野第二小学校へ
通学していました。
当時はまだ、地下鉄が
開通していませんから
山手線で有楽町から大崎まで
外回りを利用して学校へ
通っています。
小学校4年生の時に近所の人に
お母さんのことを継母だと
知らされたて「おかあさん」と
言えなくなった。
今まで母親と思っていたのに
嫌いになっています。
泉ピン子さんは将来、美容師に
なりたいと父親に話したら
父親は猛反対した。
父親が反対した理由を近所の人に
話をしたら「本当のお母さんは美容師で
髪結いさんだった」と言われた。
そのことを聞かされて泉ピン子さんは
驚いた様子だったそうです。
そして、「継母から離れようと
この家を早く出よう」と思っていた。
小学校時代はモノマネが得意で
弘田三枝子さんや森山加代子さんの
モノマネを学校のクラスの子に
披露して人気者になっていた。
泉ピン子のプロフィール
- 本名:武本 小夜(たけもと さよ)(旧姓:江口)
- 芸名:三門 マリ子(みかど マリ子)デビュー直後
- 生年月日:1947年9月11日
- 出生地:東京都中央区日本橋
- 出身地:銀座
- 在住:静岡県熱海市
- 身長:154cm
- 体重:53Kg
- 血液型:B型
- 星座:乙女座
- 学歴:東京都品川区立日野二小学校卒(現・品川区立日野学園)
東京都品川区立日野中学校卒
東京都日本音楽高等学校中退 - 趣味:散歩・映画鑑賞
- 特技:料理・日舞
- 職業:女優
- 活動期間:1966年-
- 配偶者:武本憲重(1989年から)
- 所属事務所:Pi企画株式会社
実家家族・親族
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家族
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料理は小料理屋で修行
小学校を卒業しました。
中学校も品川の区立日野中学校に
入学しました。
小学校から嫌な事を近所の人から
母親が継母と聞き、こだわりを持った
毎日が苦痛で鬱々としていました。
当時心の支えになっていたのは
歌だったそうです。
ラジオから流れる歌謡曲に夢中になり
自慢荒らしのようになって
中学1年生の時に「テレビ歌まね見本」に
出場して、優勝を勝ち取った。
この時に賞金1万円を貰って
自分と家族に洋服を買って
まだ、お金が余っていたそうです。
1959年頃の1万円は物価が安く
コーヒー一杯40円〜50円時代です。
ラーメンも50円でした。
泉ピン子さんは子供心に
「これは儲かる稼げる」とおもった。
優勝したおかげでスカウトされて
浅草の映画館のアトラクションで
歌うようになった。
そして、三門マリ子の芸名を貰って
歌手デビューしました。
前座で北島三郎ショーには
出たくないと話をした。
当時の三門マリ子の芸名時代は
全く売れなかった。
まだ中学生でもあり成績は
1と2だった事からあだ名が
「おいちにの小夜さゃん」と
呼ばれていた。
中学生時代から歌手として
ステージに立って歌ってました。
泉ピン子自身スターになり切れず
容姿ではないと感じて
実家の小料理屋で働いていました。
小料理屋には常連の業界関係者や
芸能人が多く通っていました。
働いていた時にある業界関係者から
「漫談家にならないか」の一声に
実家を早く出たい一心だったので
話に乗ったのです。
高校を卒業して大学には進まずに
18歳(1966年)の時に
ウクレレの漫談師牧伸二さんに弟子入りします。
ギター漫談でデビューしました。
この時、芸名を「泉ピン子」と
父親が命名しました。
名前の由来は、泉は泉姓の
芸能人はいないとジンクスがあり
挑戦の意味で「泉」にした。
ピン子のピンがカタカナの方が
年寄りや子供に受け親しまれから
と話をしている。
デビューしてからやはり全く
売れず、キャバレーなどの
ドサ回りを続けていた。
28歳の時にワイドショー「ウイークエンド」の
リポーターに起用されました。
リポーターとして下ネタ連発で
「ワーストワンタレントとして1位」に選ばれ
良くも悪くも世の中の人々に注目された。
1977年には歌手として「哀恋蝶」の曲で
デビューしました。
その間女優としても活躍していました。
6年後の1983年には朝ドラ「おしん」に
出演が決まって女優として
演技を発揮しました。
泉ピン子の生い立ち!幼い頃育った場所は銀座!料理は小料理屋で修行のまとめ
日本の情報発信の街で
生まれた泉ピン子さん
3歳の時に母親を亡くしています。
物語はここから始まったのです。
日本橋から銀座へ移り住んで
幼い頃は、銀ブラを満喫していたのでしょう。
そんな街には都電が走り
三丁目交差点は渋滞していた。
しかし、学校は中央区ではなく
品川区の区立日野小学校へ
通学していました。
両親が浪曲師で毎日歌い続けて
いるのを聞き自然と歌が好きになった。
それ以来、いろんな人のモノマネが
得意です。
小学校・中学校・高校は私立としては
もっとも古い日本音楽高等学校へ進学します。
近所のおばさんから、継母と
指を指され、自宅に居るのが嫌になった。
中学時代から小料理屋で
アルバイトをしながら
こつこつとたまったお金で
早く実家から離れたかった。
早く独立して、自分の夢を
叶えたかったのでしょう。
女優・歌手として志した
泉ピン子さんも後期高齢者の
一人として、大衆で演じた事を
忘れないでこれからも末永く
視聴者の皆さんに笑いを与えてください。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。