わくわくウキウキブログ

石田えりの生い立ち!幼い頃は妹と一緒に遊び!中学生からタレントに!


こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は還暦を迎えた女優の

石田えりさんが役者人生46年を迎え

数々作品に出演して年齢を感じさせない

役者としてハリウッドデビューを果たし

日本人としての活躍されている

イメージが印象的な石田えりさん

俳優になる前の幼い頃に過ごした

場所がどんな所で育ったのか

気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

石田えりの生い立ち!

 

熊本県八代市は熊本市内から車で

1時間ほどの南下した田園地域に

ある場所で生まれました。

八代市は柑橘系の栽培が盛んな場所でもあります。

また、畳表に使われる「井草」の生産地です。

八代市は不知火海と海にも近く、

魚介類は新鮮な魚が刺身で頂けるところでもあります。

そんな町に生まれたのです。

石田えりのプロフィール

幼い頃は妹と一緒に遊び!

両親が離婚して、妹と二人、八代の

児童養護施設で3歳から9歳まで育てられました。

普通なら親が離婚したら、どちらかの親が

引き取るところですが、よほどの事情が

無い限り、児童養護施設への入居は

あり得ません。

よほど複雑な家庭環境にあったのでしょう。

厳しい幼年期を過ごした事でしょう。

そんな中でも、児童養護施設で妹と一緒に

春は不知火海に施設の人が誘導して

引き潮の時に、浅瀬で潮干狩りをして

バケツ一杯アサリを採って持ち帰り

夕飯、朝食のお味噌汁の具として

勿論、砂抜きをして奇麗に洗って

児童たちは食べていたのだと思います。

以前、八代市の場所は製紙工場のパルプを

熱した匂いが、鼻を衝き、風となって飛んで

街中の人の鼻に入り込みます。

なれるかというとそうでもないかもしれません。

また、この町の山手には、柑橘畑があり

日本で一番大きい「晩白柚(ばんぺいゆ)」という

柑橘が有ります。

普通のミカンも、潮風にミカンが当たり

酸味が甘くなって、独特の糖分が多い

ミカンが有ります。

石田えりさんは妹と一緒にミカン畑に

養護施設の引率者と一緒に、ミカン畑で

農家の人の手伝いをしていたのでしょう。

また、八代と隣町の千丁町の井草の田んぼで

泥遊びをして、遊んでいたと思われます。

また、八代妙見まつりは秋に開催される

熊本でも祭の数に入る祭りとして

知られています。

祭の事は姉妹は知っていたのでしょうかね?

小学3年生9歳まで児童養護施設で

過ごしていました。

児童養護施設から別の場所へ移り住み

1971年7月に5年生の時に

木造平屋の幼児部棟が消失しました。

石田えり姉妹は母親に引き取られて

姉妹は育っていったのです。

中学生からタレントに!

小学校6年生の時に母親に引き取られ

通っていた太田郷小学校を卒業して

小学校の隣の八代第二中学校に入学します。

このころから歌手に憧れて歌っていた。

中学校に入学してソフトボール部に所属し

好きだったスポーツの一つとして選んだ。

日々練習に出席して、部が休みの時

熊本市内のYMCAのスケートリンクに出かけては

スケートを楽しみ、朝から夕方まで滑っていた。

 

八代から熊本までは、当時の交通便はバス(産交バス)

鉄道よりどちらかというと便利です。

当時は八代から熊本(辛島町)バスセンター中心部

位置して、どこへ行くにも辛島町を起点

出かける市民や県内の人が利用する場所でもあります。

市電も便利でバスと電車を利用する事も便利です。

そのことを知っての、石田えりさんは

行動していたのでしょうかね。

熊本に行く時は妹さんも一緒に連れて出かけて

いたのでしょうかは定かでは有りません。

中学2年生の時に芸能事務所に入り

タレント養成所に通っている子に初恋が芽生えた。

中学2年生の時に八代から東京都

港区立御成門中学校へ転校しています。

 

指揮者・チャーリー石黒のオーディションに合格して

石黒の母の家に下宿してチャーリー石黒音楽教室で

歌を習った。

中学校を卒業して、堀越学園高校に入学した

1976年16歳から1978年まで東京音楽学院で

ダンス・台詞(セリフ)・演技のレッスンを受けていた。

習い始めていた時期に秋の番組「スターチャレンジ!!」の

アシスタントとして務め、芸能界入り。

石田えりさんの名づけの親は、石黒の母が

付けてくれたそうです。

石田の石の字は、石黒の石からとったものだった。

石田えりの生い立ち!幼い頃は妹と一緒に遊び!中学生からタレントに!のまとめ

終戦から15年経った熊本八代の町は

復興し始めていた頃で、少しづつ街も

活気づき始めていた頃で、八代は製紙工場に

セメント工場と大型の工業地帯になりつつ

田園地帯でもあったところで、石田えりさんは

生まれたのです。

環境的には西に不知火海、平野部と山に

三角錐の地帯でもあるところです。

川は球磨川が流れ不知火海に流れ込んでいる。

そんな中で、両親が二人の子供を育てることが

出来なく、児童養護施設に預けなければ

ならない家庭になってしまいました。

3歳からと言いますとまだ記憶が残る

年齢ではなく、幼い姉妹は児童養護施設で

育って行きました。

九州の八代は言葉は荒っぽいですが

優しさは、話してみれば分るとまで

言われる土地の人達です。

そんな、石田えりさんが還暦を迎え

懐かしい、田舎の田園風景を見つめて
欲しいものです。

わたしは、人間も鮭と同じだと思うことがあります。

幼い頃に覚えた匂いをふたたび訪れる

という事は、懐かしさの余り、体が覚えているからこそ

帰りたいという意思を持っているからだと思います。

石田えりさんも身体のどこかに

鮭と同じ事を思っていると思います。

鮭が川を上るのに、身体を傷つけて痛々しい

姿を観ますが、人間はその姿を見せずに

元気でいることが大切です。

これからも女優として身体に気を付けて

演技を続けて欲しいものです。

これからも活躍されることを願っています。

八代市生まれの芸能人に八代亜紀さんがいます。
八代亜紀の幼い日の生い立ち!幼い頃から色々な歌が好きで志た!ご冥福をお祈りいたします。 こんにちは、自由 まなぶです。 わくわくブログに お越しいただき ありがとうございます。 今回の記事は日...

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