こんにちは、自由 まなぶです。
わくわくブログに
お越しいただき
ありがとうございます。
今回の記事は俳優仲代達矢さんが
役者70周年を記念して劇団「無名塾」が
石川県菜々緒氏能登演劇堂を
皮切りに役者人生の集大成の作品が
幕を開けた。
役者として物語の年齢と差があるが
後期高齢者になった仲代達矢さんが
俳優になる前の幼い頃に遊んでいた
場所がどんな所で育ったのか
気になったので
記事にまとめていきます。
短時間(約3分)でお読みいただけます。
仲代達也の生い立ち!
今年、90歳を迎える仲代達矢さん
生まれた年は戦時中で昭和の始め頃
東京市目黒区五本木(祐天寺駅が最寄りの駅)で
生まれ、父親の仕事はバスの運転手(京成電鉄)は
東京都と千葉県の県境を走る路線バスに乗車していた。
母親は五反田の薬局の看板娘(五反田小町)と言われていた。
父親の仕事で千葉県津田沼に住んでいたこともあった。
その後、東京世田谷瀬田に移り住んでいました。
小学校2年生の時に父親が死去した。(死因は不明)
幼い仲代達矢少年は小学校を転々と変わっていった。
仲代達矢のプロフィール
- 本名:仲代 元久(なかだい もとひさ)
- 生年月日:1932年12月13日
- 出身地:東京府東京市目黒区(東京都目黒区)
- 身長:178cm
- 体重:75.0kg
- 血液型:B型
- 星座:射手座
- 学歴:東京市世田谷区立瀬田小学校
港区立青山小学校
調布市仙川町桐朋小学校・若葉小学校に転校しています(疎開中)
調布市立第八中学校
東京都立北豊島工業高校に入学(空爆が激しく通学を断念)
東京都立重機工業高校を卒業(敗戦を迎える)
東京都立千歳高等学校定時制卒業 - 趣味:映画鑑賞・野球観戦
- 職業:俳優
- ジャンル:演劇・映画・テレビドラマ
- 活動時期:1952年-
- 活動内容:1952年俳優座養成所
1955年俳優座入団
1959年人間の條件
1962年切腹
1966年大菩薩峠
1972年新・平家物語
1975年無名塾創立
1976年不毛地帯
1979年俳優座退団
1980年影武者
1985年乱
1996年紫綬褒章
2003年勲4等旭日小綬章
2007年文化功労者
2015年文化勲章
2018年海辺のアリ - 配偶者:宮崎恭子
- 著名な家族:仲代奈緒(養女)
- 所属劇団:劇団俳優座(1952年-1979年)
無名塾(1979年-) - 事務所:仕事
幼い頃は父親の転勤で千葉!
まだ、記憶に残っていない頃の
仲代達矢さんは母に連れられて
千葉の津田沼でバスの運転手をしていた
父親を背中を見ながら、将来のことを
思っていたのかは定かでは有りません。
東京青山から疎開先へ!
一家は青山の弁護士事務所の留守番を任せられて
小学校3年生になって母親と一緒に暮らす事になった。
当時の暮らしは戦争中であって、食料も配給制で
衣食に困っていた。極貧状態で青山の
学校の生徒たちは裕福な家庭の子供達の
通学する学校だったので、仲代達矢さんが弁当の
おかずがほとんど、サツマイモ、沢庵で
一般の家庭ではなかったので
白いご飯ではなかったと思います。
たまたま、学校へ用事が有って母親が行った時
担任の先生から「この学校は貧乏な子供さんが来るような所の学校ではない」と
上から目線で言われて言われた。
戦時中は東京の疎開先調布市仙川町までは電車で
約40分の所に在り、紹介されたお寺で一人
疎開する事になったのです。
母のいない疎開先ではお寺と学校の
往来だけで、遊び盛りの仲代達矢さんは
友達を作り、ビー玉、釘さし、めんこと言った
遊びをしていたのでしょう。
子供同士は直ぐ仲良く成ったり、ケンカしたり
直ぐ仲直りをして、互いが友達を作っていったと思います。
小学校を卒業して青山に戻ってきました。
その時に目にしたのは、父親が別の人だった
それに、昔は許されていた、お手伝いさんを
妾(めかけ)となって、弟を産んでいたのです。
その別の父親(弁護士)が母親の為に渋谷に
家を借りて住んでいたが空襲に遭って
世田谷区烏山に移り住んだのです。
中学校を卒業して1945年に青山の
弁護士の教頭先生を務めている
東京都立北豊島工業高校に入学しました。
烏山から北豊島工業高校までの距離は
16kmあって通学には電車を使用していました。
当時は戦争中で通学の途中で空爆を受けるなど
危険をともなっての通学を経験していたのです。
日々危険を伴う通学を断念し中退しました。
住んでいた千歳烏山から近い高校に編入したのが
東京都立重機工業高校でした。
住んでいた自宅からは約30分ほど距離で
2.3kmの所に学校が有ります。
工業高校は今は都立総合工科高等学校と名前を
変更しています。
学制改革ののち、親戚や弟と一緒に
ポン菓子や中華そば製麺所をお越しまた。
世田谷区立烏山中学校の用務員なども
務め乍ら、京王線を踏切を渡り
南に21分距離にして1.7kmを
歩いて定時制の生徒として学び卒業しました。
仲代達也の生い立ち!幼い頃は父親の転勤で千葉!東京青山から疎開先へ!のまとめ
東京の中心地に近い目黒区で生まれ
戦争中に、父親の死と向かい合って
幼い頃の記憶に後期高齢者になっても
死との直面には残っていると思います。
俳優を目指すようになったのは、
高校生時代で通学中の帰り道に映画を
よく見ていたと話しています。
俳優という演技を見て育ったと思われ
劇団での稽古は持って生まれた能力を
発揮して、演技していったのです。
代表作品は数々ありますが
わたしが観た黒沢監督の椿三十郎や七人の侍・用心棒は
今でも思い出される映画の一つです。
当時は白黒でしたが、迫力のある映画で
学生時代の思い出の一つとなりました。
後期高齢者になった仲代達矢さんは
今年で90歳という年齢ですが
仲代達矢さんのオーラがすごいですね。
全国公演の70周年の巡演を達成してください。
白髪から髭面が似合う後期高齢者の仲代達矢さん
元気で健康に演じてください。
今日もわくわくウキウキブログを
最後まで読んでいただき有難うございました。