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中島みゆきの生い立ち!幼い頃は札幌から岩内!歌詞を教えてくれた父!

こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事はシンガーソングライターの

中島みゆきさんは70歳と高齢者なんです

歌い続けて年齢を感じさせない歌手ですね。

変わらぬ人気を誇りってのベテランミュージシャンの

中島みゆきさんは国民的な人気者です。

時代は歌いだし♪今はこんなに・・・

つい口ずさみたくなる曲です。

力強く説得力ある歌声は今も見ても

変わらない人気が有りました。

高齢者以上の方は懐かしいと思うでしょう。

中島みゆきさん高齢者で有りながら

歌い続けられる秘訣は幼い頃に

遊んでいた場所がどんな所だったのか

出身地が気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

中島みゆきの生い立ち!

中島みゆきの歌と言えば、

わたしは、「糸」です。

結婚式の時に歌って聴かせてくれた

曲はこの曲でした。

♪縦の糸とあなた

横の糸はわたし♪

逢うべき糸に 出逢えることを

ひとは仕合わせと呼びます♪

心に沁みる感動の曲、涙がこぼれました。

北海道札幌で生まれた中島みゆきさんは

父親の仕事の関係で、札幌から

約60km西側の岩内町で小学校を

過ごしました。

この町の特産は「たらこ」スケトウダラはえ縄魚業

北海道発祥の町です。

当時はたらこ食卓に並んでいたのでしょうかね?

日本海に面した岩内町は西風にあおられ

冷たい冬が待っています。

そんな町で父親病院で医者として

へき地への移動を希望されていたのでしょうか?

若い先生は、中々へき地への希望を出す人が

いないと聞きます。

あえて、中島先生は希望していたのでしょう。

そんな家庭で生まれた中島みゆきさんは

幼稚園も転園をして、お友達ともすぐ別れ

母親は寂しそうに過ごしている姿を見て
習い事にピアノとバレエに通わせたのです。

 

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中島みゆきのプロフィール

実家家族

幼い頃は札幌から岩内!

 

幼い頃に引っ越しをして、幼稚園の友達とも

別れては、寂しそうにしていた中島みゆきさんを

見てていた母親は裕福な家庭であったからこそ

ピアノとバレエに通わせて、

心のどこかで、モヤモヤを解消するようにと

通わせていたのでしょう。
そんな中でピアノの稽古に筆記用具の

筆箱に輪ゴムを筆箱の巻いて引っ張ったゴム輪を

はじていた音が面白く感じて、

音色に慣れ親しんでいました。

当時はテレビではなくラジオからの音を

聴かせる両親だったそうで、ラジオから

流れる音楽やアナウンスの声を聴いていた。

ラジオからの歌声を中島みゆきの歌として

コピーし歌だけでは飽き足らず、

幼稚園の頃には既に作詞を始めていた。

幼稚園では何をしても遅かったことから

急がないとみんなに先に行ってしまうと強迫観念が

子供の頃からあった。

年長さんの時の夢はスチュワーデスになることでした。

1962年5年生まで岩内町で過ごした。

1963年の6年生の進級は父親の

引っ越しにより、帯広に移住しました。

仕事が病院先の転勤を命じられて

家族全員が引っ越ししていたのです。

帯広の小学校を卒業しています。

この間もピアノは続けて、引っ越し先で

ピアノを教えてくれる先生を母親は

探して、習いに通わせました。

帯広では、自宅から往復2時間もかかる距離の

ところで習っていたのです。

中学校は帯広市内の中心部に有って

帯広駅は近くに有り便利であった。

帯広は碁盤目のように区切られていて

余り迷うことは無かったと思います。

最近有名になった「豚丼」の発祥の地でもあります。

わたしが、帯広に出張で行っている時は

豚丼は有りませんでした。

どちらかというと十勝ワインの池田町の方が

観光地としても有名でした。

お土産は必ずと言って良いほど「六花亭」の

紙袋は北海道の花をあしらった紙袋。

持っているだけで北海道へ行ってきたと

自慢できる六花亭の袋です。

マルセイバターサンド・板チョコ(ホワイトチョコ)を

買って帰った事が有りました。

中学時代は友達の勧めで陸上部に在籍していました。

また、担任の先生とは別に国語の先生との出会いで

言葉の重要性を学んだ。

中学3年生の時に、母親が体調を崩し、母親の看病のため

母親の実家がある山形の山形市立第六中学校へ一時転校しています。

4か月後に母親の病気が治り、帯広に戻ってきました。

その間ピアノを受験勉強のため続けられず、

辞めてしまいました。

中島みゆきさんは学生時代は転校が多く

友達とも過ごすことができなかった。

友達の輪にも入れずに一人で過ごすことが

多かったそうです。

高校受験に見事合格して、高校入学祝として

両親からピアノではなくギターをプレゼントされたのです。

独学で練習をはじめました。

やはり高校生になっても、周りの生徒とうまく溶け込めなくて

授業中は毎日鬱々と詩を書いていたそうです。

高校生時代も生徒との接触が無く、引きこもり気味

ということで、地道に作曲を始めていました。

学園祭の時は自ら作った曲を、引っ込み思案を

変えたいとステージに立って歌ったそうです。

歌っている最中にトイレットペーパーを投げつけられる

嫌がらせをされたそうです。

中島みゆきさんは放課後一人でピアノを弾いたり

ギターと歌詞を弾き語りをして歌っていた。

帯広で受験勉強に熱中して、見事札幌の

私立女子大学に進学します。道内では

お嬢様学校としても知られている大学です。

大学では放送研究会に在籍して札幌のローカルラジオ局で

アルバイトをする傍ら、音楽活動も一歩踏み込んだ

活動をして、コンテストで入賞したことから

「コンテスト荒らし」とまで言われるようになった。

1972年20歳の大学3年生の時に

「全国フォーク音楽祭全国大会」に

北海道地区代表として出場しました。

課題曲を渡されて、中島みゆきは唖然としたそうです。

課題「私が歌う理由」という詩を渡されて

ショックを受けて、いままで自慢していた自分が

この歌詞を見て瞬間「頭に火花がついたような」やられた

と思ったそうです。

大会では最終審査まで残りましたが

私心満々だった自分が如何に世間との差が

大きかったかと思い辞退したそうです。

1974年の春に札幌女子大学を卒業して

帯広の実家に帰って両親が経営していた

中島産婦人科医院の手伝いをしながら

作詞作曲をしていました。

1975年23歳の時に「ヤマハ・ポピュラー・コンテスト」で

オリジナル曲「傷ついた翼」で入賞したのを

きっかけにこの年の9月「アザミ嬢のララバイ」で

念願のCDデビューを果たしました。

中島みゆきの生い立ち!幼い頃は札幌から岩内!歌詞を教えてくれた父!のまとめ

北海道は札幌生まれの中島みゆきさん
父の仕事で、子供は何も知らずに

ついて行き、その土地になれたかと思ったら

また、違う土地に行く事で、子供は友達を

失い一人ぼっちで過ごすことが多い

そんな中島みゆきも両親の言うがままに

後ろからついて行き、馴染めない土地の子と

友達になっても、別れが来る日が待っていた。

母親は中島みゆきが寂しがっていた事は

分かっていたから、気をまぎらわすのに

ピアノやバレエを習いに行かせたのです。

それからというもの中島みゆきは音楽という

物に興味を示し、時間さえあれば詩を書き

ギターを弾きながら曲をつける事で

名曲が自然に出来た。

中島みゆき70歳高齢者の仲間入りは

とっくにすんでいるのに、声はビブラートで

歌っているのは高齢者とは思えません。

まだまだ、学生時代に詩が歌われていません。

高齢者だと思えばではなく、まだ若いという気持ちで

歌って欲しいものです。

わたしは「時代」の曲が父親に捧げていた

歌だとは、思っていませんでした。

両親は中島みゆきを帯広で見守っているのだと

思います。

益々これからも健康で歌い続けてもらいたいです。

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最後まで読んでいただき有難うございました。

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