わくわくウキウキブログ

細川たかしさん来年は後期高齢者の仲間入り!振り返って集団就職は札幌!

こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事はデビューから47年目の

演歌歌手の細川たかしさんのヘアースタイルは

ちょっとかわった演歌歌手のスタイルで歌っている

姿を見て変わらない人気が有りました。

高齢者以上の方は懐かしいと思うでしょう。

細川たかしさんも高齢者で有りながら

歌い続けられる秘訣は幼い頃に

遊んでいた場所がどんな所だったのか

出身地が気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

細川たかしの生い立ち!

戦後生まれの細川たかしさんは

よく昔の田舎で育ったことを

自慢しています。

北海道は洞爺湖15kmとニセコ10kmの間に位置する

盆地の中に真狩村が有ります。

自然豊かな北海道の自然な村に溶け込んで

育った細川たかしという少年がいました。

細川たかしのプロフィール

実家家族(農家:主にジャガイモ生産)

家族

幼い頃は羊蹄山で暮らし!

 

細川たさんの実家がどんな所で

どんな暮らしをしていたかをひも解いてみます。

北海道中西部の位置にあり真狩村から羊蹄山(富士山に似ている)

見ながら、幼い頃は毎日、一か月、半年、1年と

春夏秋冬の変わりゆく景色を見ながら

細川たかし少年は、成長していきました。

実家は農家で、北海道の代表的作物の一つ

じゃがいも(馬鈴薯)の生産をしていました。

幼い頃から、母親の背中に抱かれて

広大な畑の中で、母が手作業で仕事を

していたのを見て細川たかし少年は、

母親は腰の痛みをがまんして仕事に打ち込んでいました。

そんな、光景を見て育った細川たかし少年は

小学1年生になってからは、学校が終わると

畑仕事の手伝いをしていました。

昔ですから、農機具やトラクターといった

マシーンは有りませんでしたから

土を耕して、ジャガイモのタネを一個一個

畑の掘り返したところに手でさしこんで

行くのです。

ジャガイモは春ジャガイモと、秋ジャガイモ

2回収穫する事の出来る野菜です。

細川たかし少年は、雪解けの春先、

梅雨のない北海道で春ジャガイモ収穫後

次に7月には秋ジャガイモのタネを植え付けます。

その繰り返しを、細川たかし少年は小学校まで続けた。

真狩村立真狩小学校を卒業して

真狩村村立真狩中学校に入学して

中学時代に洋楽、ポピュラー音楽、歌謡曲が

流れていて、音楽に興味を持つようになったのです。

このころ世の中ではギターが流行っていて

フォークソング、エレキギター等の楽器が

流行して、細川たかし少年も友達とバンドを組んで

ドラム担当として日々練習を重ねていました。

実家は農家ですからジャガイモの仕事を手伝っていたので

中々練習がはかどらなかったみたいです。

父親と母親に仕事のない日は、納屋を貸してもらい

友達を集めて「ベンチャーズ」のエレキの音を

マネをしてギターの弦を上下させたり、

エレキギター特有の弦の調整ができる

レバーを小指で振動させて、電子音を鳴らして

ベンチャーズ気分を味わっていたのです。

その他には井沢八郎の「北海の満月」が大好きで

農家の後継ぎはやりたくないと、歌が好きで

歌手になりたいと志していました。

細川たかしさんの時代は団塊の世代で

中学校を卒業する生徒は”金の卵として”社会に

歓迎されていた時代です。

集団就職は札幌!

細川たかしさんの実家の跡継ぎをあきらめて

道内で仕事をするには、まずは札幌で仕事をして

その間に歌の練習を重ね、歌手になる希望を持っていたのです。

その為に、父親・母親を説得して札幌へ行く事になったのです。

細川家は兄弟誰も跡継ぎがいなくなって

父親と母親が農家をやり続けることが出来なくなって

親戚の叔父さんに引き継いでもらうことになったのです。

1966年昭和41年14歳の時に札幌市内

自動車整備工場の整備士として住み込みで働いて

油交じつなぎりのツナギを着て、1日中車の

下にもぐって、オイルドレンコックを開けて

オイル交換や足回りのブレーキ・ミッション・タイヤ等

の整備にあたっていたと思います。

ある日のこと、ギターを弾いている人が居て

興味を示し、その人の紹介でキャバレーのバンドボーイを

夜のアルバイトとして働き始めたのです。

昼間は整備工場で働き、夜はバンドボーイとして働いていました。

昼間は眠くして方が無かったみたいで、うとうとする時間が

多くなって、とうとう工場長に呼び出され、

仕事する気あるのか!夜の仕事と両立は未成年には

まだ無理だったのです。

細川たかしは歌手になる事を捨てきれず

自動車整備工場を辞めてしまいました。

整備工場を辞めたことで住み込みだった住まいが無くなって

途方に暮れる毎日だった。

夜のアルバイトだけでは、食べていけず、毎日インスタント食品のみ

細川たかしが歌手志望という事が周りの人に

伝わり始めて、お店の開店前、お客さんが入店する前に

従業員たちの前で少し歌わせてもらっていた。

そんな日々が続いて、ヘルスセンター(健康ランド)で

歌や司会の仕事がうまくできるようになって

お客さんに歌って見せていた。

この頃から歌唱力がつき、当時は民謡ブームで

民謡も歌うようになった。

歌を重ねるごとに上達していることが分かった。

そして、運命の出会いが3年後の1969年に

すすきの界隈では細川たかしの評判を聞いて

すすきののいくつかのナイトクラブから声がかかり

お店の掛け持ちをして歌をうたっていたそうです。

当時の北島三郎、森進一、五木ひろし、沢田研二等

当時のヒット曲を歌って、モノマネも森進一に似ている

と言われて「すすきのの森進一」とまで言われていた。

1974年21歳の時に東京の「バーニングプロダクション」の

社長、周防郁雄さんの目に留まりスカウトされたのです。

当時、細川たかしは22歳の時に結婚していました。

男の子、譲(ゆずる)さんがいました。

細川たかしは結婚して子供がいる事で

世間がどう見るか?

上京に対して奥さんは後悔しないように行ってくればと

背中を押してくれたそうです。

そのおかげで、今が有るのだと奥さんに

感謝していまししたが2018年に妻和子さんが

闘病生活からお別れしました。享年70歳でした。

上京して1975年のデビュー曲は「心のこり」がヒットした。

細川たかしさん来年は後期高齢者の仲間入り!振り返って集団就職は札幌!のまとめ

 

北海道の中西部、羊蹄山の裾野に広大な畑が

真狩村の農家の人達の作物場として

畑一面にジャガイモ、人参、玉ねぎを植えて

北海道から関東への出荷が始まるのは

初夏から秋にかけて、特にジャガイモは

品種も多く、甘くなったジャガイモは格別です。

そんな、真狩村で細川たかしは実家の畑で

幼い頃からジャガイモの植え付けを手伝い

実家の跡継ぎ思っていた両親を裏切って

中学時代から歌手になる夢をいだき、

団塊世代で集団就職(東京・大阪)先は

地元の道内札幌で自動車整備工として

働き、近所の人とギーターで知り合った

そこから、歌手人生となっていきました。

高齢者として歌い続けている姿は

幼い頃の細川たかしそのものです。

少しぽっちゃりした体つきは健康面で

少し無理をしている感じが有ります。

病気にならない為にも自分が先生です。

日々散歩を続けて体調を整えてください。

これからも、細川節を私に聞かせてください。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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