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吉田拓郎の出身地、幼い頃の生い立ち!思い出はふるさと鹿児島!引退!

 

こんにちは、自由 まなぶです。

わくわくブログに

お越しいただき

ありがとうございます。

今回の記事は音楽シンガー

ソングライターの吉田拓郎さんの

ジーンズとサングラスが

どこか似合ってギターを

弾きながら歌っている

姿がふるさとを感じて

歌っている気がして

気になっていました。

生まれ育った出身地の

ふるさとが気になった。

吉田拓郎さん76歳が

7月21日のフジテレビ系列

タイトル「LOVELOVEあいしてる」が

最後のテレビ出演になります。

今までに歌い続けられた

幼い頃のふるさとが気になったので

記事にまとめていきます。

短時間(約3分)でお読みいただけます。

最初に吉田拓郎の歌を覚えたのが

下駄を鳴らした奴が来る♪の

我がよき友よの歌詞の始まりで

歌いだすの幼い頃

住んでいた、出身地を

ひも解いてみます。

鹿児島県の北部に位置し、県境

 

熊本県、宮崎県が接しています。

鹿児島県の最北に有り、盆地でもあります。

昔は大口町として金の鉱山が有りました。
大口町は北の山に向かう熊本県人吉市に走る道路、

西の不知火海に向かう水俣市に走る道路

鹿児島県の海に続く出水市し南にはさつま市が走り

東には宮崎県のえびの市への道が走っています。

南の方角には、霧島連峰が町を覆いかぶさる

雄大さを見せてくれます。

そんな、緑豊かで水源にも恵まれた

大口町(現伊佐市)で生まれたのです。

父親の実家があった伊佐郡羽月村で

幼い頃を過ごしていたのです。

吉田拓郎のプロフィール

実家家族

小学校に入学するまでは、伊佐郡羽月村

山と川の自然豊かな地域でしたでしょうから

吉田少年はすくすくと育ったのでしょう。
町から離れた場所には、温泉もあり

また、金脈が有り鉱山としても

栄えてる町です。

父親の出身地である鹿児島県伊佐郡

羽月村出身の堂前家から

吉田家に養子に入って、吉田拓郎となりました。

鹿児島県鹿児島郡谷山町に移転しました。

6歳の時には既に谷山町に転居しています。

鹿児島市内より南の地域になります。

南北に走る鹿児島中央から指宿枕崎線が

国道線と並行して並んで走っています。

錦江湾を奥には桜島が毎日の様に

噴煙が空高く噴き出しています。

そんな場所に吉田拓郎は小学校2年生8歳まで

過ごしていました。

昔の谷山町は、直ぐそばまで海水が流れ込んで

真水と海水がまじりあった場所が多くあったとみられます。

父親の吉田正廣さんは鹿児島県の郷土史家として

勤務されていたそうです。

吉田拓郎さんには兄弟がいて姉の部屋で

生活していて、姉は歌謡曲が大好きで

歌ったり聴いたりしているを目にして

拓郎少年は徐々に影響を受けたのです。

 

拓郎少年は両親が別居して、母親の祖母が

広島の出身で広島に呼び寄せたのです。

小学3年生からは広島県広島市南区西霞町に

移り住み、転校生として、4月から

広島市立皆実小学校に転校しています。

広島市は山からの川が何本も分れ流れていて

地理で習った三角州の代表される都市です。

そんな中で、小学時代を送る事になった

拓郎少年は、きっと毎日、小学生割引の

広島のお好み焼きを食べていたと思われます。

紙屋町は広島でも繫華街で、東西のアーケイド街は

昔も今も変わらないと思います。

昔の広島駅南口には、飲食店が並び、

広島を訪れる人たちが、駅前でおでん、お好み焼きを

食べて電車で帰宅したと思います。

今の広島駅は、高層ビルが立ち並び

旧貨物ターミナルには、マツダスタジアム、コストコと

観戦者や若者の買い物客が、コストコの屋上から

マツダスタジアムを見下ろし応援しています。

また、マツダスタジアムには3塁側奥には

入場しなくても観客席から観ることができます。

こんな球場は、セリーグ・パリーグの球場を

観ても有りません。

以前の広島球場は、市電の駅原爆ドーム前に

有りましたが2009年4月1日開場されました。

拓郎少年は小学時代、身体が弱く小児喘息持ちで

学校へは半分程度しか出席しておらず、

自宅での生活で、母からは本を与えられて

いたものの、ウクレレを買ってもらい

ウクレレもHIGーLOGどっちを

買ってもらったかは分かりませんが

小学5年生の高学年から中学校に

入ってから音楽を始めたそうです。

高校も広島市小学校中学校の学内の

広島県立皆実高等学校に

入学しました。

友人の通う広島商業の文化祭に誘われて

そこで見た高校生バンドこそが

吉田拓郎が描いてた「エレキバンド」演奏こそが

決め手となった。

吉田拓郎の出身地、幼い頃の生い立ち!思い出はふるさと鹿児島!のまとめ

幼い頃の思い出に残る場所は

ハッキリと分かり始めるのは

幼稚園5歳の頃からだと思います。

拓郎少年も記憶に残る思い出は

鹿児島の山奥の川の水が集まり

町のいたるところには火山が噴火した

爪痕のごつごつした岩が川の流れに

削り取られている場所が伊佐市(旧大口町)です

既に記憶は鹿児島市の南地区の谷山市は

右に錦江湾・桜島が噴煙を上げて

対岸の町に灰を降り注ぎ、町内の人は

灰のかたずけに、毎日大変な思いをしています。

そんな場所から、学校の転校が3年生には

広島で母親と姉と拓郎の三人は叔母の家に

住むことになって行ったのです。

小学校・中学校・高校・大学を卒業するまで

身体か弱かった少年に、音楽という薬を

与えてくれました。

そのおかげで、拓郎少年は今年で75歳

後期高齢者の仲間入りです。

わたしも高齢者ですが

健康が一番です。

これからも元気に作詞作曲と歌い続けて

健康で体をきたえて、わたしに音楽の

魅力を伝えてくださいました。

長い間お疲れさまでした。

これからは体を少しでも

楽にさせて体を動かして

適度な散歩をお続けください。

今日もわくわくウキウキブログを

最後まで読んでいただき有難うございました。

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